2008年11月21日金曜日

ラオス・パクセ コーヒーがマズイ

ラ、オーッス!このベトナムという国、日本人はノービザで入国した場合15日まで滞在できるそうでなによりですね。しかし!しかしなのだ!ベトナムのSAPAが面白すぎたのとハノイでアホみたいに風邪ひいててしまったためにビザが切れてしまう危険な状態に。ベトナム縦断計画失敗!ベトナムは縦に長いから北と南じゃ違う国みたいだよって聞いてたもんだから、そして大好きなフォーの味も違うって聞いてたもんだから、北から南で縦断しつつそんなのを見極めて行こうとしてたんだけど、あえなく失敗。でもこのゆうちゃんぐーす、頑固なもんで一度決めたものは実行します。一回ベトナムのフエからラオスに入って、再びベトナム入国してビザを復活させ、縦断計画再実行です。そのための新年の楽しみにしていたラオスからひょんなことから入ったラオスへ。こんなの旅にはつきものっしょ。ちょっと待ってろベトナム南部。








ベトナムのフエのドミトリーで一緒だったもう10年以上旅を続けてるっていう女性の方も同じ日にラオスに入るということでご一緒させてもらった。(ベトナム)フエ→ダナン→ラオバオ→(ラオス)サワンナケート→パクセという道のりを、ベトナムで有名なツーリストバスじゃなくてローカルバスを使っていく。完全にビザ切れへの恐怖なんかより冒険心が勝っちゃってるんですよ。コーヒー大好き子ゆうちゃんぐーす、コーヒーの名産地パクセへ。








って今回ご一緒させていただいた女性の方、もう10年以上旅してるんだって。知的な方雰囲気のでNGOなどのボランティアに参加しつつ、物価が高い国で働いて金を稼ぎ、安い国でのんびりすごす。その繰り返し。てかそれって可能なの?可能らしいです。そんな旅を10年も続けてる人ってどんな人よ?それ気になるっしょ。いっぱい話聞きたい!きっとすげーんだぜ。だからご一緒させていただきました。








しかしすごく残念でした。話の9割が金の話。どこでどんだけ値切っってやったとか日本人は値切らないからバカだとか。俺が聞きたいのはそんな話じゃない。そして完全に現地の人を馬鹿にした態度。宿までの道がわからなかったから現地の人に道聞いたらわからず、それでもその人は一生懸命考えたり、違う人に聞いてくれてるのに、この人たちは教養ないから地図もよめないって馬鹿にする。ただ来ただけの客引きを思いっきりつきとばす。あんときはその客引きの人も怒って危険な状況だった。結局、警察呼ぶぞってその人が脅してその客引きを無理やり帰るしかない状況にした。あと、かわいいーとか言って遊んでる子供の頭を後ろからつかんで自分の方へむける。子供びびってたじゃん。親すらびっくりして怖がってた。そしてずーっと、いわゆるボリ文化がさかんなベトナムの悪口ばっかいってるし。なんだかなー。







つまらんよそれじゃ。そして別れかたも最悪だった。パクセの宿に夜中ついて、一番安いドミトリーが空いてなくて、しょうがないから次に安いツインに2人で泊まった。レセプションにはっきりでかでかと58000キープと書いてあったツインの部屋。翌日、昨日のなんだかなぁの気分がまだ残ってたから、俺は朝はひとりでメシくいに行った。そんで帰ってきたらなんだか騒がしい。他の同じツインに泊まった白人が50000キープで泊まってるって言ってたのを聞いたらしい。それ聞いて怒りだして宿の人に文句を言いにいく。あの人は50000キープで泊まってたみたいだ、8000キープ返せ!って。それで宿の人が値段表にもツインは58000キープって書いてあるとおり、ツインは58000キープですってなだめる。でもあの人は50000キープで泊まってたんだ!って怒る。そりゃぁさ、その白人が値切ったからじゃないの。それだけの話じゃん。あの白人は値切れて、俺らは値切れなかっただけじゃん。それで納得して昨日58000キープ払ったんじゃん。なにを今更。それでもその人の怒りは治まらず、騒ぎだす。私はラオス人好きだったのにここの人たちは最悪だ!とか。最終的に、ネットに悪く書き込んでやる、そしたら日本人こなくなるぞ!って脅す。おいおいそりゃないよ。宿の人も終始苦笑いで対応。俺もっその様子を端っこで聞いてた。結局、一緒にここまで来たその女性は怒って出てってしまった。俺も宿のスタッフも近くで聞いてた旅人たちもみんな嫌な気持ちにしてどこかへいってしまった。さよならも言わずに。ちなみに現在1ドル90000キープくらい。2人で泊まったから怒ってた原因の金額は一人4000キープ。日本円にしたら40円ちょっとくらいだ。それで旅行に来てるみんなを、それを気持ちよく迎えてる宿の人を嫌な気持ちにしてどっかいっちゃった。








旅を10年続けた末がこれかって、すごくがっかりしたんです。俺なんて初心者だからなまいきなこといえないけどさ。10年旅してた人の感性を期待してただけにすごく残念だった。やっぱり旅を生活にしてはいけないのかな。生活にすると金を1に考えるようになってしまうのかな。すばらしい景色や人のやさしさはこの人には見えてないのか。すっと話を聞いてたけど、9割以上が金の話。俺の聞きたいのはもっと違う話だ。なんだかなぁ。








よっしゃ、俺の名前はMCゆうちゃんぐーす。今日はお前に一言言わせてもらう。







旅の価値は金とか数字じゃ表せないぜ!


もっと不確かな何かだ!








宿の人に暴言を吐いた後、最後にその人は俺に言った。「君は旅慣れてないからわかんないだろうけど、こんくらいしないとダメなのよ」って。








うっせー!だったら俺は一生旅に慣れたくなんかない!そんなことしてみんなを嫌な気持ちにするくらいなら、俺はボラれてくやしい思いを笑い話にするわ!そして旅に慣れずにいつまでも客引き相手にキョドっていたいわ!こんちくしょう!あなたが金のことを考える時間、俺はきれいな景色を観たり、すばらしい人と話したりするんだ!あー、ちくしょう。コーヒーの名産地パクセ。あぁコーヒーがマズイ。

2008年11月20日木曜日

ベトナム・DMZ 南北の分かれ目

前にも書いたんだけど小学生の時、ベトちゃんドクちゃんのドキュメンタリーを観て、なんていうか衝撃的でまだ小学校がある圏内しか知らなかった俺には世の中ってとてつもなく広くて世界にはこんなにも悲惨なことがあるのかと頭痛くなってしまったことがある。








フエからすぐ近く、DMZ(THE DEMILITARIZED ZONE)つまりは非武装地帯。ベトナムを北と南に分けていた場所だ。ベトナム戦争中はここは激しい戦いが行われていたらしい。北と南の思想がぶつかっていた場所。分かれ目。ここもディエンビエンフーと同じく、観るとかそういうんじゃなくてこの場所に立ちたかった場所。ここに居てみたかったところ。








戦争のモニュメント、物資を送っていたホーチミンルート、当時つかっていたトンネルなどを見学した。ベトナムは金もなかっただろうし戦力なかったと思う。日本も戦争中はそうだったろう。そしたら最終的に戦いが精神論になっていく。根性とか。それでベトナムはアメリカに勝ってるからすごいんだ。今普通に街歩いてる人も戦争を知ってる人だし。勘違いかもしんないけど、やっぱりベトナムの人って気が強い人が多い気がする。だって中国とかフランスとかとずーっと戦争してたんだもんね。実際強いんだよ。








この日1日ずっと雨が降っていて、乗ったバスの中からイメージがよみがえる。この場所で雨の中、田んぼの中とかに何日も隠れてずっとチャンスをうかがっていたんだろう。想像されるイメージ。どの博物館より印象的だった。ここで戦ってたんだなぁ。ここに立ててよかった。







2008年11月19日水曜日

ベトナム・フエ 真夜中のおっさんとランデブー

縦に長いベトナム。なんか目をほそめてみたら日本みたいな形してるよね、なんとなく。両端のハノイとホーチミンに人口の7割が集中してるんだって。その丁度真ん中らへん、日本でいうと東京らへんかな、ベトナム最後の王朝グエン朝があったHUE(フエ)。








寝台バスで早朝到着して、宿探し。ビンジュオン(BINH DUONG)っていう宿がいいよってハノイで聞いてそれを適当に探す。中国ではあまりいなかった客引きもベトナムではめっちゃいる。宿探しには苦労しないわー。おれんとこのホテルこい!とか言ってるけど、日本人だというと「あー、ビンジュオンか」ってかんじで引くのをあきらめる。ビンジュオンって宿はいわゆる日本人宿ってやつらしい。着いてみてほんとびっくりしたわー。ベトナム人スタッフのみんなが流暢な日本語を話す。流暢っていうかなんつうか、歳も近くなんだか地元の友達と話すノリで話してくる。顔も日本人っぽくて、おまえ同じ中学だっただろって戸惑う変な感覚。日本の本もいっぱいあって北斗の拳も全巻そろってるし、少年ジャンプなんかもある。なんやねんここ!若干の期待が逆方向に持ってかれて戸惑いながら、ドミトリーはドアなしでしかも仏壇があるっていうのにおいおい気分がよくなってくる。10日も泊まってる人もいるし。どっちにしてもなんやねん!








結論をいうとSAPAと運悪く風邪で長いを強いられたハノイのおかげでベトナムのビザが切れそうなんでここからラオスに入ってビザを再取得して再び縦断計画、サイゴンを目指します。そのための中継地点。どうやら世界遺産があるっつーことで雨の中ウォーキング。雨だと撮影しにくくてイヤだ。王朝を観にいく。なんか中国っぽい。中国の影響をかなりうけてる。よく聞いてみたら言葉も中国語に似てるのが多い。ライライ。って中国と意識してみると北京にある故宮なんかとくらべたらあれだけど、こじんまりしている。王宮全体の四角く均一な構図も似ているしその壁の中で余裕を持って建物が点在しているのも中国建築。ただイメージだけど、中国は赤が多かったのに対して、ベトナムのここは黄色が多い。なんでだろう。



裏の裏まで塗り替える世界遺産。おっちゃんの目は本物や。







コーヒー飲んで、夜。繁華街に出たらシクロ(チャリに席をつけて観光できるようにしたいわゆる自転車タクシー)のおっちゃんが話しかけてきた。シクロはさすがに乗る気ないから断ってたら、なんかこのおっちゃんいいかんじの人で、仲良くなってきて、そしたら客用の席じゃなくて運転席に乗らせてやるって言ってきた。もちろんタダで。おいおい、客用の席なんて魅力なかったけど、運転席と聞いたらくいつきますよ、おいら。早速、おっちゃんを客用の席に乗せて俺が運転する。周りのベトナム人たちが笑ってくる。そしてこれ以外に重いんす。小回りきかないし運転しずらい。シクロのおっちゃん脚力はんぱねぇ。ベトナムってバイク多いからこれじゃ事故っちゃうよ。でも運転席は高く、夜風が気持ちいい。シクロのおっちゃんはこんな気分だったんだ。だからシクロやってんだな。俺が運転して、おっちゃんがついでにフエの街を案内してくれる。おっちゃんが言う道筋とおりに30分くらいこいでたら、なんか変な場所に着いた。そこに入るとあれまーエッチなお店。もうね、一人おっぱいでてたもんね。てかまじ新手ー、あらてすぎ!シクロの客用席は乗りたくないけど、運転席だったらキッズたちならくいつくぜ。完全このおっちゃん信じてたわー。だまされたー。信じてただけに怒って帰りました。そしたらおっちゃん着いてきて金払えって。払うかってんだ。超キレたわ。まぁおっぱいサンクスってことで、今じゃ笑い話ですけど。




シクロと僕。フエ観光ならおまかせ、僕の連絡先まで!



そんなこんなフエ!明日はここからDMZ(非武装地帯)に行ってきます。ベトナムを南と北で分けてたとこ。デヒエンピエンフーと同じ、観たいんじゃなくて、立ちたい場所、居たい場所。って夜、フエを闊歩してたらこんなBAR見つけました。ベトナムの人からみたらこんなかんじなん?これダメっしょ!白人たちが溜まる中、超低音が響いてたぜ!じゃすてぃす!






2008年11月17日月曜日

ベトナム・ハロン湾  旅の出会い




ハノイでの奇妙な風邪の原因。ドミのベットの上でずっと考えてたんだけど、モン族のおばちゃんが原因かもしれないんす。SAPAでいい音がする口琴をずっとさがしてて、一番しっかり作ってあったおばちゃんのを買ったんだけど、音を試すために拭かずに口琴を口移しで弾いてた。そん時のおばちゃんがそういえば風邪引いてるっていってたわ。モン族萌えとしてはモン族から移ったんなら満足ですね(気持ち悪くてごめんちょ!)。まあしっかりした作りであった口琴も抗菌できてなかったみたいね。ようちぇけらー!








そんなこんなHANOIからツアーに参加してハロン湾に行ってきました。奇跡の引き合わせっていうか、そのツアーには来年から映像系でしかもドキュメンタリーで同業者になるという同じ立場の同い年の人が乗ってたりね。しかもドキュメンタリージャパンだって!すげー!話も弾む。








このハロン湾。中国で時間の都合でいけなかった『桂林』の海版。海の桂林て呼ばれてるらしい。いやぁ奇妙な岩だった。海の中にちんこみたいな岩がたくさんびよーんってそりたってんの。岩だから硬くて黒いぜ世界遺産だようちぇけらー!








この同業者の人といい。日本でそれなりにアンテナ張って生活してても合わないような人に偶然会うことがある。ハノイのゲストハウスでは沖縄のゲストハウスでヘルパーやってる人にあったし。旅の魅力のひとつ『出会い』。旅人の道は奇妙な縁でつながっている。これを大切にしていきたい。










なんかめっちゃドキュメンタリー観たくなってきた!あとお笑い!どうなってんの、お笑い!?オッパッピーとかどうなったん!?じゃす!









動画:ハノイでは夕方になるとこの体操をするおばちゃんをたくさん見かける。



2008年11月16日日曜日

ベトナム・ハノイ 風邪ひいちゃった

DIENBIENPHUから途中SONLAって街で一泊して、ここはベトナムの首都ハノイ。バスをめちゃくちゃ変なとこで荷物と一緒に文字通り放り出されて、その拍子に機材バックがぶっ壊れて中身全部飛び出してあたふた。あっちーぜ!なんつーか東南アジアにきたっていうか、中国でもモンゴルでも無かった喧騒を感じる。俺があたふたしている以上にバイタク(バイクタクシー)のおっちゃんがあたふた苦手そうな英語で話しかけてくる。大通りに出るとここがまたすごいバイクの数。うわぉ!THE 東南アジア。暑さに吸い込まれる。これってけっこう求めてた感覚。








うむうむ、ところでおいらここがどこかもわからないっす。人に聞いても一向に道が開けない。ただ唯一の情報として、俺がいきたいゲストハウスまでは「ベリーファー」っていうことだけ。だったらと、人生初めてのバイタクへ乗り、おっちゃんのケツでレッツドライビング!








なんつーかハノイでは体調悪かった。SAPAで抉らせた鼻風邪がDIENBIENPHUで悪化、SONLAで本気出し始めて、HANOIに着いたら完全体になりやがった。日本で集めた更生物質飲んでも飲んでも一向に治らない。だからHANOIではあまり動けなかった。旅中ひとり、昼真っからドミトリーのベットで天井を見上げる不安はとてつもない。成田空港へ行く自分の姿が脳を霞める。3日間くらい寝込んでビタミンいっぱい採って水ガブガブ飲んで、日本から持ってきた更生物質飲んでも治らなくて、もういい加減薬も無くなってしまって、現地のドラッグストアで薬買って飲んだらびっくりするくらい即効で治った。やっぱり現地の病気には現地の薬!









それにしてもベトナムのコーヒーはうまい。フィン?っていう道具で入れた濃い目の粉っぽいコーヒーをアイスにして飲む。風邪だけどカフェだけは毎日行っていた。プリンも超おいしくて昼間っからカフェにはおっさんとかがたまってコーヒー飲んでる。それくらいカフェ文化が浸透してんだ。そうさフランスの植民地だったから。道沿いにはフランスパンが売られ、町並みも欧米的。ケーキ類もギザうまし。甘いもの好きだからめっちゃ食ってたわ。プリン食って苦いアイスコーヒーを喉に流し込む。






あとフォーね。これもめっちゃおいしいわけ。ベトナム入ってからフォーばっか食ってる。だってフォーってどこにでもあるんだもん。鶏肉フォー(PHO GA)がさっぱりしてて好き。それにレモンを大量にかけていただく。そしてフォーうめーうめー言ってたらなんとなく少し気になることがわかりました。同じドミトリーに料理の学校通ってて、今沖縄にお店持ってる人が泊まってて、一緒にご飯食べに行ったときに聞いたら、どうやらベトナムほとんどのフォーのダシはあの有名は『味の素』でとってるっぽい。そいうえばどのお店に行っても味の素のパックを見かけるし、なんつってもびっくりしたのがバイタクのおっちゃんとかが日本人のことを『味の素』って呼んでくる。初めてベトナム入ったとき、「おい、あじのもとー!」って遠くから呼ばれて、何言ってんだあの人って思ってたら、それからけっこうなペースで俺を味の素呼ばわりしてくる。それだけベトナムの食卓に味の素が浸透してるってことか。そしてフォーがうまいうまいって言って食いまくってた俺の味覚はどうやらケミカルに犯されてるらしい。そうなんす現代っ子なんす。そしておっさん、ちげぇ違うって!だから俺は「味の素」じゃないって!




風邪も治って良かった最終日、期間的にしか見ることができないものをみてきた。ハノイにはホーチミンの死体が安置してある。それを見に行ってきた。銃を持った兵隊さんによる厳重な警備の中、保存のためかそこは寒く、俺の前にならんでた日本からツアーで来たって言うギャルも静かにさせるほどの空気感。赤い旗の下、グレートマンが眠ってた。観覧は歩きながらじゃないとダメで時間にすると30秒ほどしか観れなかったけど、この国の歴史を作ったこの人を生で見れてよかった。ホーおじさん。俺は革命家ホーチミンのこの写真が大好きだ。












風邪でイライラしていたせいもあるけど、それにしてもバイクがうっさい街だった。一回バイクにぶつかってるからね俺。それなしでしょ!



動画:バイタクの後ろにて

2008年11月11日火曜日

ベトナム・ディエンビエンフー 戦いの跡




今もまだ覚えてるんだけど、俺が小学生のころ、ベトちゃんドクちゃんのドキュメンタリーを観てすごくショックで、世の中にはこんな悲惨なことがあるのかとガキながら頭が痛くなったことがある。すごく強く記憶に残っている。今、俺はその国ベトナムにいる。








山岳民族の村、SAPAからガタガタ道ときて、そんでもって2回も土砂崩れを経て約9時間。DIEN BIEN PHU(ディエンビエンフー)に着いた。ここはフランスからの独立を求めたインドシナ戦争の最後の舞台、そしてそこからベトナム戦争が始まった場所でもある。コミックIKKIでやっている『ディエンビエンフー』も読んでいたからなおさらこの場所に来てみたかったし、なんていうか何かを観たいっていうかそういうんじゃなくてただ純粋にこの場所に立ってみたかった。居てみたかった。この場所の空気を吸ってみたかった。歴史が変わった場所の。そしてここには戦車や戦闘機の残骸などが今も残してあって、道を歩いていると観ることができる。そしてここでホーチミン率いる民主共和国がフランスに勝ったんだ。そのフランス軍が最後まで抵抗していた丘に行ってきた。名前を『A1の丘』という。








ちょうど夕方だったこともあり、景色がオレンジ色に光ってて厳かな雰囲気になっていた。丘に登ると、この場所はきれいに山に囲まれた盆地だということがわかる。その山に囲まれた地形を利用してフランス軍はここで戦ったんだって。こんなにいい景色なのに。だって丘だもん、そもそも景色いいに決まってんじゃん。ただ、丘の上においてある戦車は銃傷耐えなくて生々しかった。触ってみたらとてつもなく冷たかった。





丘の中心らへんに直径10mくらいの大きな穴が開いていた。きっと爆弾が落ちたかして空いた穴だろう。どっちの軍が空けたのかわからないけど、気持ちがよくないかんじがする。穴を覗き込んで、何か吸い込まれるっていうか、嫌な気持ち。そこでずーっと見つめていたらおそらく現地の中学生くらいの女の子4人がやってきてその穴の淵の所にすわりはじめた。何してんだろう?って観ていたら、その子たち、穴の淵で漫画読んでました。すげーとこで漫画よんでんなぁって思ってると、きっと暇になったんでしょう、ひとりの女の子がその友達の筆箱を穴の中落とし始めたんです。なんつーか、俺がやりそうなイタズラをすごい場所でやってました。そしたら止まらない。筆箱を落とされた友達は違う友達の本と落として、また落とされた友達はおかえしするのルーティーン。結果的に持ってるものほとんど落ちてたね、穴に。そう爆心地に。こういう場合大人が来て、こんなとこで何してんだこらーって叱るのが定説だけど、俺はそのままでいいと思ったんです。戦争体験した人から見れば申し訳ないかもしんないけど、いつまでも暗くどんよりしてるよりこうやって戦争してた場所を遊び場にしちゃうくらいの変化が必要だと思ったんです。きっとベトナムのために戦っていた人たちもこうやって子供が遊んでる光景の方を望んでると思うし。




そのうち、触ったらとてつもなく冷たくて生傷の耐えない戦車の上に乗って子供が遊び始めた。よくみてたらここでランニングするおじいちゃんもいたし、この丘を近道に使ってる人もいた。その日のうちにベトナム軍の墓へ墓参りに行った。そこでもおばちゃんたちがウォーキングしてたし、少年たちがサッカーしてた。地元の人たちはここを公園的にみてるのかな。それがベストと思ったし、地元の人たちがそうするのは理想だと思った。




日本へ帰ったらまだ読んでない漫画『ディエンビエンフー』の3巻を読もう。




2008年11月10日月曜日

ベトナム・サパ ギザカワユスなモン族と私

シンチャオ(こんにちは)!今、ベトナムの北西部、SAPA(サパ)というところにいます。ここにはモン族やザオ族などの山岳民族が住んでるところで、前にいた中国の元陽と似ています。元陽と違うところは天気!元陽では一週間雨降ってたけどここは晴れ、ベトナムだけど日本晴れ!どこまでもめっさ青い空が広がっています。そしてここにも棚田をみることができます。元陽で一週間粘っても30分くらいしか見れなかった棚田がここではもうほんとあまりにも観えるので逆になんやねんって感じです。でもこれもまた観とれちゃうほどきれいなんですねー。




そんなサパ。初日からバイクを借りて山ん中を散策&トレッキング。景色もいいし、風にりたいとか口ずさんだりしちゃったりして(てへ!)、棚田に観とれて何回も谷底に落ちそうになりながらも何個か村を訪ねてきました。バイクから降りて棚田観てたら、話しかけられて仲良くなったモン族のおばちゃん。私のベイビー見ていかないって言われて、家まで入らせてくれた。どの家は電気はないし、床はもろ土。そこで生活している子供たちは4人中2人が下半身裸。川本真琴もびっくりの2分の1の確立で裸。年の離れた大きいお兄ちゃん意外は裸足。やたらテンション高いおばあちゃんにうひょひょーって言われながら飼ってるにわとりとか犬とか紹介してもらった。そしてびっくりしたのがここのモン族の人たちは英語を話すこと。電気がない生活を送っているのに英語を話す。なぜ?って聞いたら、観光客に物を売るためだって。しかも独学。








そう、ここサパと元陽のはっきりした違い。それはサパが観光地化されていること。元陽でまったく通じなかった英語もここではほとんどの人が話す。街を歩いているとモン族やザオ族の女の子たちが欧米人相手に流暢な英語を使って物売りをしているところが目に入る。日本語話してくる人もたまに見かけた。そしてここの街並もなんだかいびつ。欧米人が生活しやすいような洋食レストランやカフェが並ぶ。そこでまるで自分の国にいるのような顔をしてコーヒーとかすすっている。そしてその欧米人たち相手にまるで外側から来たかのように元々すんでる民族たちが物売りをしている。ハローハローって自分の言葉じゃない言葉で話かけながら。観光地化されたそれはなんだか植民地を彷彿とさせた。いいすぎかもしんないけど。





このサパで特に多いモン族とザオ族。モン族は暗い歴史を背負っているという話。ベトナム戦争中、北のベトナム民主共和国&南ベトナム解放戦線と戦っていたアメリカ。北側が物資輸送のために使っていたいわゆるホーチミントレイル上に位置していたカンボジアやラオスもアメリカに攻撃された。特にラオスのパテトラオと戦わせるために山に強い山岳民族のモン族のゲリラ部隊を結成させて戦わせたらしい。それでサイゴンが欠落するとモン族をほったらかしにして撤退してっちゃったんだって。残ったモン族は北ベトナム軍から報復をうけるはめになってしまったらしい。そして多くが難民になってしまったんだってガイドブックに書いてあった。どうやらそういう歴史があるらしい。








今こういうふうにまあ観光で来てるわけなんだけど、そういう暗さは感じなかった。ノリもいいし、元陽とは違うのは、英語話せるから言葉でコミュニケーションがとれるってこと。だからより仲良くなれた。毎日会う物売りのおばちゃんとか俺はもう買わないってわかってるのに話しかけてくる。話好きなんだきっと、この人たちは。元気だし。あと、みんな若いのに赤ちゃんおんぶしてるなーって思ってて、聞いてみたら結婚する平均年齢14歳だって。それで子供も生んじゃうらしい。すげーよそれ!俺、14歳のとき1日の半分くらいは鼻くそほじってたからね。モン族たちは14歳で子供の世話をして物を売ってお金を稼ぐ.


           家にしてくれたモン族のおばちゃん


           ザオ族。前髪がない。KIBATSU!




あとこれひとつ言いたい。俺はブラックモン族の民族衣装が大好きだ。今回サパにいる間、いろんな民族を観た。パクハという田舎町まで行ってフラワーモン族というカラフルな衣装も好きだし、ザオ族の前髪、あれ剃ってんのかな?とにかくモミアゲから前髪がない髪型も印象的だったけど、俺はブラックモン族の民族衣装がめっちゃ好み。もうほんと惚れ惚れするくらい好き。毎日ブラックモン族ばっか観ちゃう。かわいいのなんのって、ねー。おばちゃんもかわいいもの、ねー。それで今日、散歩してて何をトチ狂ったかブラックモン族の民族衣装一式そろえちゃいました。ブラックモン族のおばちゃんから買っちゃいました。しかも女子用。インナー、アウター、ズボン、そして特徴のレッグウォーマー、あと細かい部品。めちゃめちゃ繊細は刺繍がかわいいやつ!あと旅は4、5ヶ月残ってる予定なんだけど、この3キロ以上してしかもかさばる荷物をどうしようか考え中です。もうバックパックの中には入りません。マジでどうしよっかな。女子用だけどきるしかねー!昔、木村カエラが好きで、そんときもトチ狂って木村カエラと同じ髪型にしちゃったけど、なんか好きなものとかになりたい性質があるね、オレ。これこれから気をつけないと。


        ブラックモン族の女子用衣装と共に残り5ヶ月旅します。




そしてここベトナム!ベトナムといったらフォー!もうマジでギザうまし!初めて食った初日から毎日食ってる!今日は朝昼晩って食ったし、一日2食はフォー言ってる。レイザーラモンもびっくりですね。フォんとおいしいんですよ。鶏肉もいっぱいはいってるし、超おいしい!人生で食べたおいしいもの葵亭のラーメンを抜いてベスト1入りしちゃったかもしんない。塩味のスープに少量のパクチー入れてレモンさっとかけて食べる。いっつも違う店食べ歩き。やばいわー。これ書いてたらフォー食べたくなってきた。これからベトナム縦断する予定だけど、なんか北と南じゃフォーの味が違うって今日出会った住友で働いているらしいベトナム人のハネムーンカップルが教えてくれた。ちょっとずつ縦断してくつもりだからだんだん味が変わってくのが楽しめるのね。まあ旅といったら食も醍醐味なわけで、ベトナムひとつ楽しみが増えました。南のフォー(方)は辛いんだって。そして北、ここサパはサッパりしています。お後がよろしいようで。








明日は早朝ディエンビエンフーに向かう。独立をかけてフランス軍と戦った最後の場所だ。大学のメガネの友人から『ディエンピエンフー』という漫画を借りて読んでいたので、ぜひ行ってみたい場所のひとつだった。バスでかなり時間かかるけどそんなん別にいいわ。さあ明日だ。jsau!







動画:サパのホテルやレストランが並ぶ観光客用メインストリートにて、サタデーマーケット。




2008年11月9日日曜日

ベトナム・バクハ フラワーモン族のマーケット


ここはベトナムのBACHA(バクハ)。フラワーモン族のテリトリー。SAPAから車を走らせ約3時間。途中の土砂崩れで車がストップし、BACHAまで行けずイライラが募るツーリスト達を横目に、おいこら周りにはきれいな景色が広がってんだ、イライラしてないでそれをみろっつーんだ。てな具合にフロンティアスピリットで障害をすり抜けやっとこさBACHA。週に一回、サンデーマーケットの真っ最中。







ここの民族たちは‘フラワー’というだけあってお花の柄を体いっぱいにつけてギザカワユス。うむ、妖精や、この人たちは妖精や。子供も、おばあちゃんまでもピンク下地にお花柄。この日は俺はTシャツでも汗かいてたわけなんですけど、暑くないの?ってくらい着込んでる。だって私フラワーモン族、おしゃれに命かけてますから!ねぇそこのアパレル関係者さん、勉強になりますよ、この人たち!







いやぁどの民族もそれぞれ独特な衣装を身にまとってて興味深かったけど、ここの人たちが一番真剣な眼差しで衣装選んでたと感じた。価値観がかわいらしいフェミニンな民族だ。ぜひとも原宿でゴスロリとストリートで戦わせたい。いい勝負すると思う。おれは7:3でフラワーモン族に分があると思う。







あとここは男の人の活気がすごかった。というより、民族衣装を着ていない男の人たちもかなり目立っていた。生肉を売りさばくパフォーマンスに群がって騒いだり、ギャンブルみたいなことも行われていた。フォー食ってたらおっちゃん2人によくわかんない酒飲まされて(灯油入れみたいのに入ってた)、これがめっちゃ強くて一杯でくらんくらんになりながらなんとこさ撮影。







BACHA フラワーモン族マーケット

2008年11月7日金曜日

中国・河口 ベトナム寸前!



雲南省河口。ベトナムとの国境の町。つきにきました、ベトナム寸前。もう目の前見えてますよベトナムちゃん!ったくじらすぜ!









ここって中越戦争の時、国境沿いだから大変だったって聞いたけどなんかそういうかんじではない。ここはというと、、、まるで風俗の街だ。おっぱいボイーンってはみでたベトナム人のおねえさんがけっこういる。風俗関係の規制がきびじいベトナムから中国のこの場所へ稼ぎにきてるんだって話。びっくりするくらい安いらしく、中国人のおっさんたちが鼻の先のばしながらぶっしょくしてる姿が目にも鼻にもつく。そしてこのかわいげな俺にも街を歩いてるとすぐ声かけてくる。おばちゃんうっせーわ、だからいかねーっつーの!メシ食いたいだけだってば!腕つかむなって!ほんとしつこい!




それにしてもこの街はエロ服着た女の子が多い。この女の子たち全員風俗の人ってわけじゃないと思う。そのベトナム風俗が地域に密着しすぎて庶民の露出の許容が緩いのか、エロい格好がかっこいいってなってんのか。それともゆうちゃんぐーすアイがただたんにエロ服の女の子を無意識に捕らえているだけなのか、、、








国境の町だけあってズケ傘かぶりで自転車に荷物いっぱい積んだ人(たぶんベトナムの貿易人)も多い。イミグレにいっぱい並んで道をふさいでる。とおらせっろっつーの!おいベトナムちゃん!待ってろよ!お前に興味がるんだ!ディエンピエンフーにもサイゴンにも行きたいんだ!ベトナムコーヒーも飲みたいし、フランスパンも食いたいんだ!ふぉー!じゃす!


2008年11月6日木曜日

中国・元陽 人間がつくった自然の芸術、棚田



元陽。棚田で有名な町。ここにきたきっかけは、どうせベトナム行くから通り道だし寄ってみようってかんじ。そもそも棚田って馴染みないし、だったら観たいじゃんってなった素直な好奇心。だけど前も話したんだけど、この町、霧がすごくて一寸先は闇。何回もずっこけてるし、何回も人とぶつかってる茶万事。太陽さんよ、でてこいやぁ!(高田延彦のマネしてる有田風)








緑春の長街宴という祭りからバックパックを預かってもらっている宿がある元陽に戻ってきた日。ここ元陽に8年住んでるっていう香港人のバックパッカーのおっちゃんに会った。今の時期は天気悪くて棚田はみえないよーって渋り顔ておっしゃる。あいやー。じゃあもうベトナム行っちゃおうかなって思ったけど、明日ここで『街一天』っていう民族の日替わりマーケットがあるからせっかくだから見てきなっよって。うん、そしたら明日晴れることをてるてる坊主にお祈りしながらボカァ寝ます。最後一日にかける。








次の日。まぁもちろん雨。ただこのマーケットってのがすごい。何日か前に『勝村』って場所で同じ民族のマーケット観たんだけど、これ目をもってかれる。ビデオまわしながら、別世界だー別世界って一人で何回もリピートしてる。マーケットはこの辺の民族の人たちが使う日用品を主に売ってる。特に服。いわゆる民族衣装っやつ。そしてここの人達のファッションはグローバル化されていない。日本ではもう普段和服は着ない。洋服を着る。これもまぁわかるように洋(外国)の服なわけなんだけど、じゃあなんで洋服着るかっていうとそら動きやすいからだ。和服着て渋谷とか行ったらそりゃ人が群がるほどに珍しい。今日び、日本で普段から和服を着てるのは八千草薫くらいだ。俺らの世代は生まれたときからもう洋服で育ってる。脳に洋服センスがしみついててて、洋服基本でどの服にしようか選んだりおしゃれしたりする。たとえば洋服着ながら、「この民族衣装のアクセサリーかわいいー、ぷふふー」なんて言ったり。でもここの人たちは逆。民族衣装が基本のスタイルになっている。赤ちゃんからお年寄りまで、それが普段着なんだ。そこからどの民族衣装の柄がかわいいか選んだり、おのおののおしゃれを楽しんでいる。価値観がまったく逆なんだ。今までこんなにがっつりした場所はなかった。その光景が別の世界を想起させた。やっぱり表だったビジュアルってのは世界を決めてる。全身がっつり民族衣装きこんだ女の子が靴屋でスニーカー選んでる姿とかもう別世界。





そして長い散歩しながら気づいたことが2つある。1つ目、どうやらここの人達は犬を食うっぽい。写真家・藤原新也の『メメント・モリ』でインドにて犬が死んだ人間を食う写真をみて気持ちが後ろへ引いてしまったことがあったが、ここではその逆。人が犬を食う。犬肉料理屋さんが何件かある。はじめはマジで食うのかなぁなんて思ってたら、マーケットの道端で思いっきり犬を丸焼きにして捌いてるとこ見てしまった。その犬の感情のある鳴き声に頭が痛くなった。ゴツゴツと。藤原新也メメント・モリ、その逆も然り。このあたりにうろつく野良犬をもう直視できない。




2つ目はこのまちは病院と薬局の数がはんぱないこと。コンビニ感覚で病院がある。お年寄りの数が多いのもわかるけど、多すぎだろ。それが供給過多になってないのがまた怖い。どの病院でも民族のおばちゃんたちでいっぱいで、点滴している光景が見られる。霧って体に悪いのかな?たしかにあんまりいいイメージはしないけど。菌とか繁殖しそうだし。








うわっと、マーケットに夢中になってた。ビデオもそうだけど、ほんと写真が上手に撮れないんだ。でもこれ写真がおもしろくなってる証拠かって思っていいかな。こういうかんじで初心者だけどやっていこう。もっと自分が思うようにできたらいいのに。








そんなこんなマジで夢中になりすぎて棚田のこと忘れてた!やばい。雨降ってるけど、棚田の観えるスポットに行く乗り合いワゴンを探すがこない。そんな中、ひとつの3輪タクシーのおねえちゃんと仲良くなって、秘技の弟キャラで値切り倒してガタガタ道の中連れて行ってもらった。雨だけど、今日が最終日だし行くしかない。もちろん棚田近くで何時間も待つ覚悟でいた。ガタガタ道を走り約1時間。ほんとびっくりするくらいの幸運で、なんとそのあたりがピカーっと晴れてきた。まじ神様にみられてるって思った。そして棚田。ありがとう、やっと観れました。待ったかいがあった。






なんていうか人間が自然をいじって作った傑作。人間と自然の融合。そもそも人間はメシを食うためにこれを作ったわけなんだけど、やっぱり人間って無意識にものを奇麗に作るのかな。というか人間が作物を育てるという行為自体がそもそも自然なのかな。そしたら自然って壮大で尊い。うねりうねったそのビシっと決まった形にひきつけられる。どこまでも続くその棚田をずっと眺めていた。雨が再び降り初めてもずっと。








これでミッションは終わり。やっと霧のダンジョンから脱出できる。じゃす!


2008年11月5日水曜日

中国・緑春 ハニ族と長街宴




元陽って街、ガイドブックとか前情報無しでいったんです。だから必然的に現地の聞き込み。とりあえず棚田がきれいってことで棚田みたくてもこの街、超霧懸かってる。3日間ずっと雨&霧。モンスターがでそうっていうかなんつーか、ネバーエンディングストーリーのファルコンもみたし、ヨーダすでにも何回か見た。ほんとそんなかんじ。霧かかってリアルに2m先は見えてない。ちょっと外にでるとすぐにハニ族のおばちゃんとぶつかりそうになる。そんなこんなで霧の中、英語ぜんぜん通じないけどめげずにちゃんぐー中国語を駆使してがんばって聞き込みしたら中身の霧は晴れてきたぜ!ここから4時間くらい行った『緑春』ってとこでハニ族の祭りがあるってさ!しかも明日!








流れがきれるわ。元陽で晴れてたらもう今頃ベトナムいてるからね。ここでの3日間の雨は布石。っていっても祭りがあるっていう人もいれば、ないわ!っていう人もいる。半信半疑だけどこりゃいくしかねーっしょ!バスものれるかどうかわかんなかったけど、なんとなく待ってたら緑春行きがふらっと来た。導かれてるかんじでそらふら。それから4時間、山道に揺られ、ようやく緑春についた。場所もわかんないのになぜ緑春についたかわかったかっていうと花火が上がってたから。人もいっぱいいる。おいおいこりゃ正真正銘の祭りじゃないか!








ついたが23時半。どうやらさっきあがってた花火は前夜祭終わりですよーのものらしい。明日が本番つーこと。明日に備えちゃんぐーす、宿を探す。安そうな宿からかたっぱなしに聞いてみると、全部没有(中国語で"無い"の意味)。やばい。さすがに知らない街で、しかも海外で野宿はまずいと思い、高そうなホテルもかたっぱなしからあたってみる。そこでも没有。時計もすでに1時を回ってる。親切なホテルのおじさんがどこか部屋空いてないか他の宿に電話してくれたけど「明日祭りがあるから今日空いてる宿ないよ」ってそれ聞いてもう半ベソ。やばし!どーする俺ってっても探すしかねーだろ!歩いて歩いてやっと見つけた一軒の宿。ここも没有。でもそこのおじさんが俺をかわいそうに思って、言ってくれた。








「中学校に寝るか?」









正確には「緑春一中」「学校」「免費(中国語で“無料”)」「私、車」「私、ハニ族」と書いたメモと「寝る」というジェスチャーで。寝かせてくれるのはありがたいんだけどどうしよう。ちょっとこのおじさん顔怖いし、無料ってのは何?知らないおじさんについていったらダメよって小学校の時に習ったし。でももうこのおじさんを頼るしかないとこまできてる。よし決めた、おじさんの車に乗り込む。俺が動揺を隠し切れてないのはおじさんにも通じてて、車内で没事没事(中国語で"大丈夫とか気にしないで")ってずっと言ってくれていた。でも実際怖いんよ。外国だもの。ビクビクしながら10分くらい走ってたらほんとに緑春一中についた。そして教室まで案内された。ドアには『民族事務局』と書いてあった。たぶん、たぶんだけど、このお祭りはハニ族のお祭りで、祭りの期間だけ中学校の教室を貸りてそこを事務局にしてて、そこに俺を泊まらせてくれたんだと思う。ほっんと安心したわ。おじさん謝謝です。








次の日。一緒の部屋で寝ていた民族の人たちと目覚め中学校の寮のニイハオトイレでウンコして歯磨いて、中学校の外にでると5割の人が民族衣装に身を包んでいた。そしてハニ族の人たちのパレードが始まった。昨日の緊張がとけたのかわかんないけど、なんかそれをずーっと見とれてしまった。それを追いかけてずーっと撮影してた。だけどちくちょー、朝から降っていた雨が本降りになってきてパレードは終わってしまった。えっどうなんの?って係員みたいな人に日程を聞くと4時半から『長街宴』っていうメインイベントがあるって話。これは雨振ってても絶対やるって。おっしゃ!









4時半。雨はまだ降ってたけど、民族衣装を着た人たちがこの街のメイン道路に籠でできた机をずらーっと並べ始めた。その両端には椅子をまたずらーっと並べた。長さ圧巻3キロ以上。そしてその机の上に料理の入った皿が置かれた。いびつな光景。片端の椅子に民族の人が座り、もう片端の椅子に俺ら客が迎えられる。そしてその料理をいただく。ほんとはチケットをどこかで買ってそれを持ってないと座ったらいけないっぽいんだけど、ハニ族のおばちゃんがすわれすわれーって言ってきて俺にもご飯を食べさせてくれた。







はじめに白酒を民族歌とともにイッキさせられる。これが強い。それからご飯を食べる。隣に座ってた陽気なおっちゃんはは白酒をイッキしては、また歌が始まりイッキさせられのループをさせられてた。これじゃ日本の大学生とかわんない。違うのは飲ませるおばちゃんたちもイッキすること。何杯飲んでんだってくらい何回も飲み続けてた。ただただ圧巻です。ただの悪酔いにもみえるけど、すっごい楽しそうでいい。途中で歩いてきた人つかまえてきては飲ませる。白酒がいいかんじにきいてくる。この夜は民族とか国籍とか関係ない。








長街宴も終わりはじめ、歩行者天国の交差点で突然ハニ族の人たちの踊りが始まった。もうそれずーっと夜中まで踊り続けんだもん。パワフルー。








今また不快深い霧につつまれた元陽戻ってきました。今回反省は宿ですね。もうあんな有吉とか森脇みたいなまねはしないってこと。俺が中学ん時は部活の合宿がなくて、人生で初めて泊まった中学校ってのが中国ってのがレアでいいけどーってちょっと思ってるけど、そんなんアホかです。ほんとにこわかったんだからぷ。ギリギリはおもしろいけどほどほどにってのが教訓。まあ今回はいい人にめぐりあえたからよかったけど。次は気をつけます。じゃす!







P.S元陽に帰る前にもう一回俺を中学校に寝かせてくれたおじさんのことに行って大量に買ったフルーツ詰め合わせを感謝の気持ちにプレゼントしました。jasu!