ビデオが直って一安心。あと10日間もすれば日本から友達が来る。それまでの約一週間をバンコクにはいたくなかったので更なる好奇心を求めてタイ北部、そしてラオスへの周遊の旅。エアコンが壊れたバスでタイ第二の都市チャンマイ。壊れちゃってて調節効かなくなってエアコン最強版でガンガンでてる。なんでエアコン直さないの?バス代安いのはわかるけどさ。体にも悪いし、地球にもわるい。運転手さんもくしゃみしてるじゃないですか。ねえ。
そんなこんなチャンマイ到着。この街には日本人が多いって聞いてた。特にこの場所で目立っているのが会社を定年して老後をここへ移り住んだおじさんたち。家族もいないし、日本では老後面倒みてくれる子供もいないので、こっちへ来て民族の女の子と結婚してその家族ごと自分の年金や貯えで養っていっている人たちがいるらしい。もちろんそのなかにはギザエロスな関係もあるし、ないのもある。ただ、この街にはバイアグラって日本語で書かれたフライヤーが目立っていたのも然り、実際待ちを歩くと手をつないで歩いてるとこを目にする。正味実際このおじさんと民族の女の子との関係はうまい具合に双方のニーズを満たしているとも思う。けどそこにはかなりのさみしさを感じざるを得ない。けれどそれが今の日本の現実なのかな。失礼かもしれないが、その人たちに話を伺いたいと思って俺はチャンマイに来た。しかし、ゲストハウスに着いて、宿に張ってあったフライヤー。『沖縄三線習えます』。沖縄三線というキーワードにハートをピピンと突かれて宿の人にその場所を聞いた。当初の目的もあったけどそれはひとまずおいといて、俺はこの三線を教えてくれる『新里愛蔵』さんの家に向かった。
愛蔵さん
新里愛蔵さんは今は絵を描いている。3年前に脳梗塞で倒れてそれから左半身がマヒしてしまい今現在は三線を弾けなくなってしまった。車イスで生活しながら、マヒしていないほうの右手で絵を描いている。愛蔵さんは沖縄の名護の近くの島の出身だ。小宇利島の近く。そこで生まれ戦後を生き抜いた。沖縄は戦場として日本で唯一使われていた場所。戦後もアメリカ軍が沖縄に基地を作り、沖縄の人が日本にくるのにはパスポートが必要だった。そんな子供時代から体の弱い愛蔵さんはたくさんの病気にかかっていた。そして突然のオートバイ事故。その事故で背骨が圧迫骨折をおこして、脊椎カリエスにかかってしまった。それを治す治療費もなく、そこから10年以上ほぼ寝たきり状態での生活を強いられることになった。
ずっと家で安静にしていた青春時代。病気に苦しむ愛蔵さんの楽しみはお兄さんの友達が弾いてくれたカンカラ三線の音だった。愛蔵さん自身も三線を習うようになり練習の時間は楽しかった。そんな長い療養生活の中、愛蔵さんは東京の病院で治療を受ける権利をもらえることになる。当時の沖縄から見れば遠い異国の地だった東京に行くことを家族は反対したが、愛蔵さんは病気を治す最後の手段をすがる思いで、ひとり東京へ治療へ行くことを決めた。
東京。愛蔵さんはここでも長く入院した。しかし、当時の日本の最先端だけあって愛蔵さんの病気の症状はよくなっていった。働けるようにもなり、愛蔵さんはタクシーの運転手を始めた。そこで知ったことは東京の人たちは沖縄のことを勘違いしていること。仕事中にお客さんと話をしていて、愛蔵さんが沖縄出身だといと『日本語上手ですね』と言われたこと。それだけ東京の人は沖縄を誤解した目でみていた。それを知って愛蔵さんは沖縄の本当をもっと伝えないといけないと思い、大好きな三線を持ってストリートへ立つようになった。
同時に愛蔵さんはコンサートも開くようになった。ぴあも掲載したにもかかわらず、2年間誰もこなかったコンサートにも序所に人が集まるようになった。愛蔵さんのコツコツとした努力のおかげで日本にもだんだん正しい沖縄が浸透していった。言ってみれば今の沖縄ブームの礎を作った人。その中で三線を習いたいという人も増えるようになり、沖縄三線教室がところどころにできていった。しかし習うということは派閥ができる。演奏の仕方によっての派閥。そして喜納昌吉やりんけんバンドのような大物たちの出現。コンサートで盛り上がると思って演奏した他人の曲。それにやってはいけないとクレームがつく。みんなで盛り上がろうといった愛蔵さんの遊び三線は居場所を失っていってしまった。
それと同じ時期くらいに愛蔵さんは絵を描くようになった。『相田みつお』の絵を見て感動したと言っていた。はじめは手の不自由な人で足や口を使って描いた絵かと思っていた。NHKの特集で相田みつおが出ており、背の高い紳士の方でびっくりした。自分も書いてみようと思った。そのとき愛蔵さんは東京の中野で小さい沖縄居酒屋をやっていた。そこに来ていたお客さんのひとりが絵を描く人でその人からすこしずつ教えてもらっていった。初めて愛蔵さんが書いた絵。相田みつおをマネして描いた字と絵。そのとき愛蔵さんは『みつお』の部分までマネして書いたという。
それから愛蔵さんは自分の店を閉めることを決意した。もっと絵に集中したかったのだ。海外で住む場所を探し、たどりついたのがここチャンマイ。愛蔵さんの好きな緑が多く、海はないものの沖縄に似てるという理由からだ。ここで三線をストリートで弾きながら、絵を描くことに没頭していった。
そんなある日、愛蔵さんは脳梗塞で倒れた。それからは左半身マヒ。愛蔵さんの人生そのものだった三線が弾けなくなってしまった。右手が動いて本当によかったと言っていた。その右手で今は絵を書いている。
そして俺はそんな愛蔵さんの虜になったんだ。
タイ北部とラオス周遊だった予定は愛蔵さんと出会った初日から切り替えた。
チャンマイにしばらく滞在しよう。
不思議だけど目の前にいるおじいちゃんの話のひとつひとつを聞きいってしまうんだ。
これね、なぜかなって考えてたんだけど理由のひとつは確実にわかってる。愛蔵さんも俺と同時期に療養生活を送っていること。俺なんかとは比べ物にならないけど、青春時代に病気のせいで動けなくなったこと。そしてそこが今の表現の出発点になっていることはお互い間違いない。だから感性が似てるっていうかものすごく近い存在に感じたんだ。そして愛蔵さんはそれを今まで生き抜いてきた人。感性の近い俺の人生の大先輩。その人にここまで惹きつけられその人から学びたいと思ったんだ。
結局ほとんど観光もせずに友達がバンコクにくるぎりぎりまで毎日愛蔵さんの家へ通ってしまった。はじめのうちは吠えてきた愛蔵さんの子供であるタローとポピーも俺が来るとじゃれてくるようになった。愛蔵さんから学ばせてもらったことははっきり言ってかききれない。死を体験した自分しかわからないと思っていた孤独な発見をひとつひとつ答え会わせしていった。愛蔵さんの口癖をひとつ挙げるならば『行動行為』。すべては行動と行為の中にある。こつこつと地に足つけてカタツムリみたいに進んでいこう。こうやってネットに書いてもありきたりの言葉になるだけだけど、俺が愛蔵さんに言われるとネットとは違うんだ。そして思い返してみれば俺も入院中にクソガキながらこうやって人生哲学みたいな詩を書いていた。愛蔵さんみたいに詩と絵。こんなこと愛蔵さんに会わなければ思い出さなかった。ギリギリだった16歳の俺よりは少しは成長したのかな。愛蔵さんのうちにいるときにほかのお客さんが来て俺を見て言っていた。愛蔵さんは君の人生の師匠だね。うん、まさにそのとおりだと思う。別にそんなこと言われても照れもしない。俺はこの人に会えたことを誇りに思う。何回りも年上の先輩の、愛蔵さんは俺の師匠だ。
P.S 愛蔵さんのことをもっと知りたい人へ。
愛蔵さんの人生が本になってます。まだまだ新しい本で去年の年末から今年の始めにかけて出版されたもの。新刊です。旅ライターで有名な下川裕冶さんが書いた『愛蔵と泡盛酒場「山原船」物語』。俺もこれ知ってびっくりしました。ぜひ検索してみてください。
2 件のコメント:
ちょっと調べ物をしていたら、愛蔵さんの記事を見つけたのでコメントさせてもらいます。
愛蔵さんには、私が以前東京でエイサーをしていた頃にお世話になったことがあります。皆で一緒にタイへ行ったこともあります。あの頃はタイに移住できたらいいなあといっていたのが実現されたのですね。あの笑顔とやさしい口調が懐かしく思い出されます。いろいろ悩んでいるのがどうでもよくなったのを覚えています。もっといろいろお話したかったなあ。
懐かしい写真を見て何だかほっこりした気持ちになりました。早速本を探してみます!
ちなみに私、今ではすっかり腰の重いおばちゃんですがバックパッカーしてました。そして同じ神奈川出身で~す。
匿名さま>
初めまして。コメントしていただいてありがとうございます。
僕も旅の中でいろいろと大変だった時期なので愛蔵さんにはお世話になりました。ほんとにやんわりした雰囲気の方ですよね。
いまごろは愛蔵さんどうしているんでしょうね?
またチェンマイへ会いに行きたいですね。
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