インド、コルカタ、マザーハウス。この施設は世界的にあまりにも有名な聖者、ノーベル平和賞受賞者マザーテレサが作ったところだ。マザーテレサは死んでしまったけどその志はこの場所に残り、現在も続いている。日本でも多くのメディアで昔から取り上げられていてその存在だけはオレでも知っていた。旅行でインドを訪れた人の話を聞いてみても、多くの人がここを訪れている。人の話だけじゃ詳しくわからないから実際にオレもいってみようかななんて思ってた。けど、これも絶妙で、タイにいるときに一人のマザーテレサの下で働いていた人に会って詳しく話を聞く機会があった。その人の話を聞くまではインドはほかの目的もあるしせいぜい3日くらいだろうと思ってたけど、これは長くマザーハウスにいるべきだと感じ、2週間のつもりでボランティアに参加し始めた。それが結局4週間弱もいてしまった。今までの周ってきた土地で1番長く居た土地だ。
なんこかあるうちのマザーハウスの施設の中でオレが働いていた場所は『カーリーガート』というところ。通称『死を待つ人の家』。末期患者さんの終末医療をするホスピスみたいなところだ。カーリーというヒンドゥー教の神様を祭るカーリー寺院のすぐ隣にある。この寺院ではほぼ毎日、この神様カーリーに生贄をささげるために生きたヤギの首を生きたまま落とすという儀式が行われている。そんな寺院の隣にこの『死を待つ人の家』はある。てかさ、これネーミングもすごいよね。ダイレクトすぎるっていうか、はじめに名前付けるときにもう少しオブラートっていうやつにつつもうとかしなかったのかな。『八百屋』だって『八百屋』ですよ。けっして『野菜売り店』じゃないわけで。その辺は日本との違いかな。まあね、わかりやすいほうが一番!マザー、ケチつけてごめんなさい。
ここにボランティアにくる人たちをを大きく3つにわけることができる。「旅行者」、「医療関係者」、「クリスチャン」。働く期間ではなく、純粋人数でいったらこの順で多いことだろう。そしてそれぞれがそれぞれの目的できていて、そのそれぞれの理由がすばらしいものばかりだった。マザーテレサの作った施設を人目見てみたい。、アザーテレサのように生きたい。。。そして旅行者のわりにわりと長くいたオレは医療関係の人と長く一緒にいることが多かった。来年から看護学校に入るために一度ここで自分を試したいという人。医者という職業に疑問を持っている医学生。。。どの人からの話もとてもためになることばかりで、この人たちがいたからというのもコルカタに長くいてしまった理由のひとつだ。本当に長い人はフォーエバーって人もいるからオレの期間なんてオレのちんちんみたいに短いからそんなにはあれですけど、旅行者のわりには長くいたほうだと思う。
そしてここからはまじめな話。そしてオレはここでインドの人のためにボランティアしたいという純粋な目的で働こうと思ったわけではない。半分は体験としての医療の仕事。そしてもうひとつは自分が高校のときに体験した死を、それを7年たった今改めて感覚してみたかったからだ。だから数ある施設の中でオレはこの『死を待つ人の家』を強く希望した。ここは世界中から人がボランティアに来る場所だし、春休み中につき人が多くて希望がなかなか通らない中、なんとか『死を待つ人の家』でボランティアする機会を得ることができた。
ここでのボランティアの仕事。朝8時に施設に入り、主に汚れた衣服の洗濯、入浴、トイレ、食事等の補助、あとは患者さんに頼まれたら水もってきたり、マッサージしたりと介護の仕事経験のないオレでも約1ヶ月なんとかがんばってできた。ただ、患者さんの数は男50人女50人と多く、言葉の不自由もあるし、トイレに患者さんを運んでいるときに腰に抱えた爆弾が爆発したりと不便はある。こんなこといっちゃダメなんだろうけど、正直初日とかは患者さんがもらしてしまったうんこを片つけるのとかイヤって思ってしまった。正直、うんこ好きな人なんていないでしょう。そういうことは仕事は仕事とわりきってやってた。
オレに課せられた介護という仕事に奮闘していく日々が続く中で自分の中に1つの変化が芽生え始めた。そもそも介護の仕事を将来の目標においていないという理由かもしれないが、4、5日経ったくらいから介護を目的として『死を待つ人の家』にいくというのではなくて、近所に住むおじいちゃんの家に遊びに行くっていうかんじ。決してその言葉どおりサボって遊んでないし、仕事はきちんとやっていたことを前置きに。4、5日経ったあたりから患者さんであるおじいちゃんたちの顔もわかってきたし、おじいちゃんたちもオレの顔を覚えてくれたみたいで、お互いコミュニケーションのスムーズさと深さができてくる。「おはよー!げんきー?」とかさ。だから昨日まで話をしていたおじいちゃんが今日ベットからいなくなってしまったときはオレはふるえがとまらなくなって仕事場から離れて泣いていた。『死を待つ人の家』でそれは死んでしまったということだから。なんだかんだいってもそういう場所だった。
1度だけ、この『死を待つ人の家』で唯一、クーラーの効いた部屋である死体安置所から死体を運ぶ仕事をしたことがあった。近くにある火葬場まで2人の死体を運んだんだけど、冷たくってさ。もう『生』が消えて、『モノ』になってるんだよね。真っ白い布でくるまれた『2つの人間』になってるんだ。その2つのモノを火葬場のカマまで運び、そこでほかからやってきた人もあわせ、人が焼ける順番を待っていた。そんときは自分の中に中にと思考がぐいぐいと入っていく。どうしても頭に浮かんでしまう。もしかしたらオレもこうやって焼かれていたのかもしれない。そりゃふるえるわ。ただ決定的に違うことがある。オレには家族もいたし、友達もたくさんいたってことだ。
次の記事『死を待つ人の家2』に続く
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