2009年4月8日水曜日

バングラディッシュ・ダッカ 命のリキシャ



インドのコルカタでこれマジで珍しいことに同姓同名の人と会ったんです。バンコクからわくわくしながらコルカタに到着したとき、何が伝説なんだかわからないが伝説の宿と呼ばれているパラゴンっていう病院みたいな宿でチェックインノートに記入してるとき、オレが「Yuki Ono」って書いてたら、スタッフが「わぁお!同じ名前の人がいるよ!」って見てみたらマジ。だからなにが伝説の宿なんだかわかんないこの宿はオレにとって伝説になったわけで(1泊だけしかしなかったけど、、、)。ただ、その人とはすれ違いんなっちゃって会えずじまいだったんだけど、オレが4週間もマザーハウスで働いてる間にまた戻ってきて会うことができた。話してきたら、おしい!!「ゆうき」は同じなんだけどその人は「小野」君、おしい!そしてそのONO君の話を聞いてみると、ONO君は「バングラディッシュ」という国から帰ってきたという。もう何回もバングラ行ってるんだって。コルカタいるならバングラ近いから行きなよってバングラ自体はここからバスで3時間くらいでいけちゃうし、首都のダッカへも14時間あればいけちゃうって知っちゃったからねぇ、これは予定ルートを少ぉし遠回りしてバングラへレッルゴー!!『小野』君が行ったなら『大野』君がいかなきゃ名がすたるってもんだ!








バングラのイメージは人口密度がすさまじく多い、なおかつ貧困な国というマイナスなイメージがあった。旅行者なんかが行っていい国じゃない思っていたから予定にはいれてなかったけど、最近は徐々にバングラへ旅行する人も増えてきているらしい。旅行人っていう旅行誌から『バングラディッデュ』ていうガイドブックもでてるみたいだし。あと日本と同じ国旗のアナザーカラーだね。セイムセイム!これ重要!








コルカタからバスで向かう。これがねぇ、毎度毎度のことなんだけど、バスがねぇ、うんこバスなんですよ。寒すぎるの。こう見えて冷え性なの。なんで暑い国の人はこんなに寒いの好きなの?そして暑い国なのに寒いの平気なの?我慢強さアピール系?中学んときとかそういうキャラいたけどかっこわるかったよ。まあ、コルカタでの疲れも同時にでちゃったのかもしんないけど、体調の悪さを感じてさ。でもクーラーはガンガンだし、風向ぶっ壊れてて止まんないしの拷問。こりゃリアルにやばいなぁって目覚めたら歩くのもままならないオノレノカラダ。








到着した場所がどこかもわからないのは不幸にも地図を持ってなうから。バングラ行きは勢いもあったので、もちろんガイドブックなんて便利本も持ってない。これはやっこうやばい。だんだん気力もなくなってくる。夜に到着したからあたりも暗く道が見えない。でもなんとかしなきゃいけないって、リキシャをつかまえてホテルへつれてってくださいって。英語通じなかったけど、オレがバックパックを持っていたのと、オレのフラフラ加減をみて、ホテルだとわかってくれて連れて行ってくれた。でもこれどこもフル。フルというかもしかしたらフルじゃなかったのかも。後で聞いたら普通の宿はあんま外国人は泊めてくれないんだって。そんなこと言わないでよ、オレの体はもうフラフラだよ。階段ももう上れないし、バックパックも持てない。1時間くらいはホテルを見つけてはフルだと言われそのたびにまたリキシャで違うところを探すを繰り返していくうちに完全に気力がなくなっていく。そんなギリギリのオレを見て、英語のできる人が話しかけてきてくれた。外国人だったらあそこのインターナショナルホテルならたぶん泊まれるよ!って。聞いてみる。よっしゃ、オッケー空いてる。助かった。。。。








その人とリキシャのおっちゃんに大いなる感謝。命を助けられたことになる。部屋に入って熱を計ってみたら『39.4度』。おいおいギリギリじゃねぇか。ベットにバタンと倒れちゃって、うがいして薬飲まなきゃってあせったけど、そのまま気力なくなって力尽きて寝てしまっていた。








マジでこのリキシャのおっちゃんに助けられた。これでホテル歩いて探してたらいつまでたっても見つからずにいてそのまま力尽きて、路上でそのままバックパック抱えたまま朝まで休もうという選択をして、さらに熱も上がり、事故などの2次災害も起きて死んでしまっていたかもしれない。マジで危なかった。改めて御礼を言います。ほんとうにありがとうございました。








本当にこの一件でいくら同じベンガル地方でコルカタと似たような場所に行くからって、しっかりした地図(しょぼいのは持ってた)は必要だし、何が起こるかわからないんだから、日本大使館の電話番号だけじゃなくて詳しい場所なども前もって調べ、そしてはじめに泊まるホテルくらいはあらかじめ決めておく必要がある。中途半端に旅なれたせいか、オレはそれをおろそかにしていた。深く反省する。








朝目覚めてうがいもできず薬も飲めなかったことにあせり、熱を計ってみる。『39.6度』。でも、寝たおかげで体力は少し回復して、そのままうがい、そして薬を飲し、水分補給。あったかい格好して寝た。寝苦しさの中、何回も起きたり寝たりを繰り返して、変な記憶がよみがえってきたりと、そんなこんなでもう2日3日たってしまったのかと時計を見てみたらいまだ昼前。時間の感覚が狂ってる。こえぇ。でも、熱計ってみたら37度代に下がってた。薬が効いたんだ。そこで安心せずに徹底的に寝る。運がいいことにこのホテルに常備されたチャイニーズレストランでスープを飲んで栄養を取って、そして睡眠も繰り返して、3日目には平熱まで下がり、外も少しだけど歩けるようになった。治った。本当によかった。








無理やりバングラへ遠回りできてしまったので、最長で4日くらいしか滞在できないので残りは1日。ただ無理も同時にできないのであたりをお散歩するにとどまった。そこで感じたのがこの2つ。人の感じや街はコルカタとあまり変わらないが、








リキシャの数が異様に多い。


外国人にすごく興味がある。








ずっとホテルの中にいたから気づかなかったけど、この街中、リキシャでマラソンしてるかのようにリキシャであふれている。車なんて1割にもみたない。オレはこのリキシャに命救われたから感謝の目を持ってそのリキシャマラソンを眺めていた。





そしてオレが歩くだけで人だかりができる。どっからきたんだー?とか、名前はなんていうんだー?とか」そんなん1日で100回くらい聞かれた。さらにビデオカメラだしたらはんぱないことになる。オレは「オレはアイドルか!?」と叫ぶ!50人くらいかな、そんくらい集まってるんだもん。パターンとしては、ビデオカメラだすたびに人が集まり過ぎて収集がつかなくなってるところを、待ってましたとばかりに英語堪能な人が現れて通訳に入り、オレが何人なのか、何をしているのかなどをそのゴチャゴチャに集まった人だかりに説明してそのたびの「おー!」とか「あー!」とかリアクションがくる。50メートルもあるいたらこの状態。幸せな意味でスチールもビデオもカメラはだしずらかったわ。先に進めないもの。






てか携帯のカメラで撮るなっつーの(笑)。そして次の日にはバングラの北、インドとの国境の街ブリマリに行きました。最後の日に日本で埼玉で仕事してたっていう関西弁のバングラ人のおばちゃんに会ったり、日本とバングラの文化交流を進めているという日本語堪能な人にあったりと、縁が舞い込んできたし、風邪も治ってバングラおもしろそうだなぁって感じてきたけど、先に進まなきゃね。残念。








結局1日しかみれなかったバングラディッシュ。ベットの上はバングラじゃない。その外の少ししかわからなかったけど、オレの命を救ってくれたリキシャのおっちゃんがいる国ってことは確かだ!じゃす!




2009年4月2日木曜日

インド・コルカタ 死を待つ人の家②



患者さんをピックアップしに行ったこともあった。『死を待つ人の家』からタクシーで通報があった現場まで行く。そこには一人の おじいさんが路上に座っていた。足がパンパンにむくみあがり、歩けない様子。もう何日をここにこうやって座っているんだろう。ものすごい悪臭を漂わせ、う んこやおしっこを垂れ流し、大量のハエがたかり、うなっている。ただ、うなっているだけ。そのおじいさんを乗せることを拒む運転手をなんとか説得してタクシー に乗せ、『死を待つ人の家』へ運んでいく。むくんだ足以外はガリガリに痩せて、必死でおじいさんは何かを必死で説明してくれてた。オレらが到着したときは行くことをすごくイヤがっていたが、病院かどこかへ連れて行くとわかると、手を合わせて何回も『ありがとう、ありがとう』って同じ後部座席に乗ったオレに言ってく る。オレなんてほんとなんでもないんだ。ピックアップの仕事を手伝ってくれって言われてついてきたにすぎないんだ。このおじいさんを運んでいくという行為 はしたけどさ。このおじいさんからオレはどういうふうに見えていたんだろう。


  





『死 を待つ人の家』に着き、汚れた体を洗っていたときもそうだ。服を脱ぐのを手伝い、石鹸と水を持って体を洗おうとすると、おじいさんはちょっと待ってくれと 言って脱いだ服を取った。その汚れた服のポケットから1本のビリーとお金を取り出す。10ルピー札が10枚ほどと少ない小銭。きっと物乞いでためたんだろ うその10ルピー札を1枚1枚丁寧にゆっくりゆっくり数えていく。そしてそのお金を水を持ったオレに差し出した。あれはお礼という意味だったのか。日本円 で言ったら200円程のそのお金をこのおじいさんはどんな気持ちで貯めたのか。足が動かなくなり、座ることしかできず、このおじいさんは。。。そんなこと を考えながらオレはおじいさんの汚れた体を一生懸命洗っていた。






こ こに来る人たちは身寄りの無い人がほとんど。身寄りがあってもそこでは生活できない人たち。インドの田舎から多くの人がお金を求めてコルカタにくる。だけ ど仕事なんてものは見つからず、そのほとんどの人が駅など人のあつまるところで物乞いをしている。コルカタの中心駅であるシアルダー駅とハウラー駅に実際 に見に行ってみたがやはりそういう人たちが多くいた。駅は雨もしのげる場所である。そしてひとつ気になったのが精神を患っている人が多かったということ。 マザーハウスの施設には精神患者さんの施設もある。こうやって生前、マザーテレサも駅に足を運んだんだろう。








こ のように『死を待つ人の家』は物乞いの人たちが多い。そしてオレには家族も友達もいた。テレビもあったし、本も音楽もあった。そんなことを考えながら焼か れる順番を待つ。この人たちは物乞い。物乞いはカーストに存在する。現在のインドのカースト事情がどこまで厳しいものかは詳しくは知らないが、ここにいる 人のほとんどがおじいさんだ。物乞いとして生まれた人生。人口密度の多いこのベンガル地方では仕事もない。その人生のほとんどを路上で物を乞いて生きてき た。路上には子供の物乞いもいる。そして多くの老人もいる。この路上で子供がこの老人へと変わっていく人生の過程を想像できますか?








そ してオレが運んできた2つの人の順番がきた。ブラザーと2人でその死体を持ち上げ、カマのすぐ前のレールの上まで運ぶ。運び終わる前に開くカマ。その2つの死体はレールの上を一息もつかぬ間に走りだす。ガタンッ。カマが閉ざされるとすぐに火を炊く音が聞こえ始めた。それを見ていたのはブラザーとオレだけ。この人たちの生きてき た人生の過程ではない。








DEARマザーテレサ。マザーの言っていたようにオレはこの人たちに愛をあげられていたのかな。昨日仲良く話してたおじいちゃんに、今日死んだおじいちゃんに、きちんとマザーの言うような愛をあげられていたのかな。マザーテレサさん、オレはあってたんですかね?








感 じること、考えることが多すぎた4週間弱だった。この旅の中で一番長くいた場所だ。普段はこんなんじゃないのにかっこわりぃ話、泣いてしまうことが多かった場所 でもある。まだ消化しきれてないことも多い。そしてここでの多くの出会いに感謝。これも長く居ついた理由のひとつ。特にスミコさん、風に立つライオン。19歳のときからおさえつけてたモヤ モヤをよみがえらせてくれた。医学への道の模索。『愛の反対は無関心です』BYマザーテレサ。かっこつける気はないけど、やっぱりオレは無関心じゃいられ ない!じゃす!




インド・コルカタ 死を待つ人の家①



インド、コルカタ、マザーハウス。この施設は世界的にあまりにも有名な聖者、ノーベル平和賞受賞者マザーテレサが作ったところだ。マザーテレサは死んでしまったけどその志はこの場所に残り、現在も続いている。日本でも多くのメディアで昔から取り上げられていてその存在だけはオレでも知っていた。旅行でインドを訪れた人の話を聞いてみても、多くの人がここを訪れている。人の話だけじゃ詳しくわからないから実際にオレもいってみようかななんて思ってた。けど、これも絶妙で、タイにいるときに一人のマザーテレサの下で働いていた人に会って詳しく話を聞く機会があった。その人の話を聞くまではインドはほかの目的もあるしせいぜい3日くらいだろうと思ってたけど、これは長くマザーハウスにいるべきだと感じ、2週間のつもりでボランティアに参加し始めた。それが結局4週間弱もいてしまった。今までの周ってきた土地で1番長く居た土地だ。









なんこかあるうちのマザーハウスの施設の中でオレが働いていた場所は『カーリーガート』というところ。通称『死を待つ人の家』。末期患者さんの終末医療をするホスピスみたいなところだ。カーリーというヒンドゥー教の神様を祭るカーリー寺院のすぐ隣にある。この寺院ではほぼ毎日、この神様カーリーに生贄をささげるために生きたヤギの首を生きたまま落とすという儀式が行われている。そんな寺院の隣にこの『死を待つ人の家』はある。てかさ、これネーミングもすごいよね。ダイレクトすぎるっていうか、はじめに名前付けるときにもう少しオブラートっていうやつにつつもうとかしなかったのかな。『八百屋』だって『八百屋』ですよ。けっして『野菜売り店』じゃないわけで。その辺は日本との違いかな。まあね、わかりやすいほうが一番!マザー、ケチつけてごめんなさい。









ここにボランティアにくる人たちをを大きく3つにわけることができる。「旅行者」、「医療関係者」、「クリスチャン」。働く期間ではなく、純粋人数でいったらこの順で多いことだろう。そしてそれぞれがそれぞれの目的できていて、そのそれぞれの理由がすばらしいものばかりだった。マザーテレサの作った施設を人目見てみたい。、アザーテレサのように生きたい。。。そして旅行者のわりにわりと長くいたオレは医療関係の人と長く一緒にいることが多かった。来年から看護学校に入るために一度ここで自分を試したいという人。医者という職業に疑問を持っている医学生。。。どの人からの話もとてもためになることばかりで、この人たちがいたからというのもコルカタに長くいてしまった理由のひとつだ。本当に長い人はフォーエバーって人もいるからオレの期間なんてオレのちんちんみたいに短いからそんなにはあれですけど、旅行者のわりには長くいたほうだと思う。









そしてここからはまじめな話。そしてオレはここでインドの人のためにボランティアしたいという純粋な目的で働こうと思ったわけではない。半分は体験としての医療の仕事。そしてもうひとつは自分が高校のときに体験した死を、それを7年たった今改めて感覚してみたかったからだ。だから数ある施設の中でオレはこの『死を待つ人の家』を強く希望した。ここは世界中から人がボランティアに来る場所だし、春休み中につき人が多くて希望がなかなか通らない中、なんとか『死を待つ人の家』でボランティアする機会を得ることができた。






ここでのボランティアの仕事。朝8時に施設に入り、主に汚れた衣服の洗濯、入浴、トイレ、食事等の補助、あとは患者さんに頼まれたら水もってきたり、マッサージしたりと介護の仕事経験のないオレでも約1ヶ月なんとかがんばってできた。ただ、患者さんの数は男50人女50人と多く、言葉の不自由もあるし、トイレに患者さんを運んでいるときに腰に抱えた爆弾が爆発したりと不便はある。こんなこといっちゃダメなんだろうけど、正直初日とかは患者さんがもらしてしまったうんこを片つけるのとかイヤって思ってしまった。正直、うんこ好きな人なんていないでしょう。そういうことは仕事は仕事とわりきってやってた。








オレに課せられた介護という仕事に奮闘していく日々が続く中で自分の中に1つの変化が芽生え始めた。そもそも介護の仕事を将来の目標においていないという理由かもしれないが、4、5日経ったくらいから介護を目的として『死を待つ人の家』にいくというのではなくて、近所に住むおじいちゃんの家に遊びに行くっていうかんじ。決してその言葉どおりサボって遊んでないし、仕事はきちんとやっていたことを前置きに。4、5日経ったあたりから患者さんであるおじいちゃんたちの顔もわかってきたし、おじいちゃんたちもオレの顔を覚えてくれたみたいで、お互いコミュニケーションのスムーズさと深さができてくる。「おはよー!げんきー?」とかさ。だから昨日まで話をしていたおじいちゃんが今日ベットからいなくなってしまったときはオレはふるえがとまらなくなって仕事場から離れて泣いていた。『死を待つ人の家』でそれは死んでしまったということだから。なんだかんだいってもそういう場所だった。









1度だけ、この『死を待つ人の家』で唯一、クーラーの効いた部屋である死体安置所から死体を運ぶ仕事をしたことがあった。近くにある火葬場まで2人の死体を運んだんだけど、冷たくってさ。もう『生』が消えて、『モノ』になってるんだよね。真っ白い布でくるまれた『2つの人間』になってるんだ。その2つのモノを火葬場のカマまで運び、そこでほかからやってきた人もあわせ、人が焼ける順番を待っていた。そんときは自分の中に中にと思考がぐいぐいと入っていく。どうしても頭に浮かんでしまう。もしかしたらオレもこうやって焼かれていたのかもしれない。そりゃふるえるわ。ただ決定的に違うことがある。オレには家族もいたし、友達もたくさんいたってことだ。






次の記事『死を待つ人の家2』に続く