2009年4月26日日曜日

ネパール・カトマンズ VIPASSANA瞑想②

この呼吸法を2日半ほど、つまり25時間ほど行ったプレヴィパッサナの終わり。いよいよ本題VIPASSANAへと入っていく。今度は鼻だけでなく体全体の感覚に意識して観察する。頭から足へ、足から頭へ、はじめは小範囲で少しずつ動かしていき、徐々に大きな範囲、そして体全体へ、さらには体の内側までというもの。すべては体の自然な感覚のみ観察しましょう。








そ してこの瞑想を行っている間は目は開けてはならないし、体も動かしてはならない。これがきつかったわ。座布団をひいているとはいえ、どうしても瞑想の1時 間体を動かさないと足や手 や背中がしびれてくる。睡眠しているときだって動いてないように見えてそれらを回避するために無意識に体を微妙に動かしているもの。マジこれきつかった わ。しびれ や痛みすら自然と観察しなければならないってやつ。マジ自分との戦い。てかさ、こんなこと言いたくないんだけどさ、隣に座ってたネパーリがマジうるさくて さ。初日からずっとうるさいの。せっかく自分 の中の強敵「もしかし亭迷子」を打破できるようになってきたのに、今度はこっちがうるさくて集中力がぶれる。鼻をグチュグチュグチュグチュやったり、く しゃみだってありえないくらい大きな音で最高9回だよ。9回だよ9回。あと1回で10回だよ。どんだけ噂されてんねん。しかもオレの集中力が切れそう になって、ダメだ!集中しなきゃ!って気合入れなおそうとした寸前とかに屁とかこくし。また「ブー」とかいうかんじじゃなくて「ぷぃ~ん」とかいう生暖か い高温。どちくしょう、負けてらんねえ。このネパーリは目覚めた人ブッタさんがオレに送った刺客だとかんがえるようにした。まあ慣れてきたのかそんなかん じでだんだんと気にならなくなっ ていった。そしてこの人はきっと蓄膿症で瞑想はさぞ難しいだろうなと思うようになっていった。これもVIPASSANAの教えである、すべては自分の中に あるということなんだろう。結局ムカツクと思って自分をいやな感情にさせていたのも他者ではなく自分なんだ。あと、集中できないよー、ムカツクよー、と 思っていたときに気づいたら大量の涙が流れていたことがあった。いくらムカツクとは いえ、こんなにあふれるほぼなくことってあるの?これもVIPASSANAの成果のひとつで、体の今を観察することにより、自分の心の奥底に押し込めてき た過去の感情が表れてくるというもののあらわれなのだろう。そういえばこの大量の涙が流れたくらいからこのネパーリが気にならなくなっていった。








VIPASSANA をはじめてから、だんだんと体を動かさないでいる時間も伸びていって、6日目についに1時間体を動かさずに瞑想できた。こういうのあんまり書きたくない んだ けど書かせてもらうと、神秘体験ってやつ?が、そのとき起こった。瞑想を始めて1時間もたちそうな少し前、たぶん30分から45分が経過したあたりだと思う。いつもそ のへんから体のしびれ が我慢できなくなるんだけど、このときもそうだった。でもどうしても負けたくないから、思いっきり意識を強く保ってもちこたえていた。でもどうしても左 足がしびれてしかたない。やばい、自分で動かす前に左足が痙攣してきた。なんやねん、ちくしょう、左足。「おい!左足。動くな!今お前を観察してん だ!」って心の中で叫んだ。この時点で今考えれば脳はふっとんでるかもしれない。だって左足に話かけてるからね。「動くな!このしびれ自体が幻想なんだ! 左足!」。その瞬間に体がぶわっと浮いてまるで逆バンジージャンプのように自分の意識がロケットみたいに発射された。周りでめいそうをする人たちがいる感 覚はある。でも意識が上へ上へぶっとんでいく。意識の回りに風を感じる。とっても気持ちがいい。うわーこのままどこまでいくんだろう。それにしても信じら れない状態なのに、意識はまるで平常心。うわー、気持ちいい、ああ、でもだんだん風の感じが弱まっていく。あー終わるかもって思ったら上空で一瞬ふわっと 浮いた。そしてそこで見たのは丘。 その丘には7人くらいの人が立っていた。1番前に立っていたのは白髪のヒゲがはえてハゲのおじいさん。その姿をみたら今度は意識がゆっくりと下へと落下し ていく。 ゆっくりさゆっくりまた風を感じながら落ちていき、ああ戻るなって思ったらなぜか隣にいるネパーリが指をパチって鳴らして、その音と同時に意識が体の中に 戻っていった。いったいなんな んだろうと、そして気づくと足のしびれは消えていた。時間の感覚もぶっ飛んで、そのまま初めての1時間達成。こえー!でも後から瞑想先生に質問したら、こ の体 験もただの幻想にすぎないということらしい。今の自然な体の感覚を観察できていないだけ。こういう神秘体験もただのイメージにすぎないという。確かによく 考えてみたら俺がみた白い ヒゲのおじいさんってイメージ上の神様の存在っぽいかんじだった。そして7人っていうのも七福神的なことかな。まだまだか。うーむVIPASSANA難し い。








なんちゃって神秘体験を経て徐々に瞑想をしっかりとできるようになっていった。この次の日からは1時間体を動かさないのもあ たりまえになっていき、その中でど れだけ体の感覚を観察できるかというもののなっていった。初めは小さい部分だけだったが、範囲も徐々に大きくなり、頭から足へ、足から頭へとしっかりと意 識 を動かしていった。








VIPASSANAとは心の浄化。体の今を観察することで過去と未来を絶つ。そうすることで過去に押しためてきた感情がよみがえってくる。成長していく上で過去に経験した感情がこころのすみっこにおし溜まって残ってしまっているという。わかりやすくいえばトラウマのようなもの。オレの心からも幼少期の感情の記憶 から最近の旅の感情の記憶まで、多くの記憶があふれよみがえってくる。こんなに小さいころの思い出忘れていたよっていうことにも改めて気づく。それが気持ちよくっ て、でもすごくつらくって瞑想をやめたくなることもあった。というか実際にやめて外に出てしまったこともあった。この感情のあふれはあまりに細かくて書き きれない。そもそも文字にまとめられるものではない。だけど、オレはこんなにも悲しみを背負っているんだと少しさみしくなった。








今までは書 かなかったが、オレは16歳の時に1年ほどある病気で入院していたことがあった。なによりも、そのときの。そのときの感情の記憶があまりにも多くあふれて きた。数々の負の感情の記憶。くそったれだ。年月を経て理性では超えられたとしても、ここそのすみっこに負の感情の記憶としてたくさん蓄積されていた。と同時に体にも 変化が起こり、涙がどんどんあふれてくる。こんな大量に涙は普通はあふれない。入院中だってほとんど泣いたことはない。それなのになんで、今、泣いてしまうんだろう。








そ の中でも入院中のオカンの生活。この記憶が強くあふれてきた。ほぼ毎日病院にきてくれたオカン。自分の生活を犠牲にして、ほとんでがオレのための生活。家から病院ま でのラッシュの時間帯に渋滞で動かない車の中でどんなことをオカンは考えていたんだろう。入院中に腰が弱くなって倒れたことがあった。このときも誰よりも早 く、ものすごい形相でかけっつけてきてくれた。当時、オレは反抗期?だったのかな。ぜんぜん素直じゃなくてそんなことどうでもいいとはじいていた。少し恥 ずかしいけど、今こうして思えることは少しは成長したのかなとほんの少しだけ思うようにしたい。家族を大切にと。









こういう状態を繰り返してい くうちに心が浄化されていくのがわかるっていうか、これがそういうものだったのかというのがあって、瞑想と瞑想の間の5分間休憩の時に瞑想ホールから外に 出てみると、あまりにも外の光景が美しくみえる。ただ普通の光景、木も花も虫もなんてきれいなんだろう。生きている。生命をかんじる。これが心の浄化な のかな。内を変えることで外が変わった。日本を出るときはあまり感じられなかったんだけど、世界はこんなに美しいんだ。なんだろうこの気持ち、この感覚。世界はとっても美しい。 World is so beautiful!。オレはVIPASSANAという大きな宝物を得ることができた。








この瞑想とあわせてそしてそれを可能にしたのは10日間中の食生活などもそうだと思う。ベジタリアンな健康的で定期的な食事。早寝早起き。山の中のきれいな空気。これら瞑想以外の外から受け取るものも確実に今回影響していると思う。そしてこれらは普段の生活でも心がけ次第で可能になる。ただ困ったことにジャンク好きのゆうちゃんぐーす。テリヤキバーガー超好き。やっぱ実際は難しいかな。バランスとってってかんじだね。健康健康。








そして最終日10日目には VIPASSANA瞑想が終わり話すことが許された。同部屋の白人のおじいちゃん(超うんこくさい)はウクライナ人というのを最終日にて知った。ウクラ イナからVIPASSANAやるためにネパールまで来たんだって。それだけ今の世の中に求められているってことかな。実際にVIPASSANAはインドの刑務所や役所でおこなわれているらしいし。今のぐるぐるまわってる世の中だからこそ必要なのかもしれません。








オレは10日間の コースが終わった今もここカトマンにいる間は夕方1時間グループ瞑想を行っているVIPASSANA CENTERのシティオフィスに足を運んでは瞑想を続 けている。できるだけ宿にいてもやっている。オレはVIPASSANAから大きな技術を得た。はっきりいって10日間コースでの生活を現代社会で行うのは不可能だ。だって1日10時間以上瞑想してたらそりゃ 食ってけません。だからこの技術を得たうえで世俗とどう付き合っていくかがこれからの課題。今はただ模索していこう。ワールドイズソウビューティフルのために。World is so beautiful!じゃす!

ネパール・カトマンズ VIPASSANA瞑想①



VIPASSANA瞑想。それは昔からインドに伝わる瞑想法。約2500年前にゴータマ・シッタルダが開拓して、悟りを開いたときに行っていた瞑想だ。つまりあの有名な手塚治虫さんのブッタさんっていう人ですね。パーリ語でVIPASSANAとは「ありのままに観る」という意味。体をありのままに観察すること。気づきの瞑想。体の中で起こる瞬間の思いやしがらみを理解していく。自分の今を観察して、心を成長させていく。「今」の自分に意識を集中させて、泉のようにあふれでてくる過去や未来を経ち、心の水面を穏やかに保つ。そしてブッタは言う「人間の不幸の根源はすべて自分の内側にある」と、そしてそれを取り除きましょうねと。








なんだか瞑想とか聞いただけで「あーやーしーいーっ」って思っちゃう人もいるけど、そんなことなくて、このVIPASSANAにはきちんとした世界的な組織が存在している。そしてこの瞑想は何か特別な力を得るためとか、たとえば三つ目がとおるやホムンクルスみたいに第三の目を開かせちゃおうとかそういうのでは決してないんです。ゴータマ・シッタルダ、つまりブッタが再発見した、人間の不幸はその内側にあるものであり、それを観察し、人として幸せに生きるためにの瞑想という技術なんであしからず。








ていうかこう弁解してもあれなんで、、まだあやしいと思う人はこれみてね。



【参考】日本ヴィパッサナ教会ホームページ
http://www.jp.dhamma.org/index.php?id=1163&L=12








全世界にそれができるセンターが100箇所以上あり、
もちろん仏教の人の数が多い我が国日本の京都と千葉にもそれはある。本当は京都で体験したかったんだけどそんな時間もないもので、おいでやすされなかったもので。そしてここカトマンにはVIPASSANA瞑想のやり方や理念を説明してくれている日本語訳のテープがあると聞いてここにきたわけだ。これで英語EASYなオレにも安心。VIPASSANAセンターのオフィスがどこにあるかもわからずにカトマン来ちゃったけど1人のネパーリが教えてくれてその場所にいくことができた。ヒンドゥー国っていうイメージが強いネパーリが教えてくれたのはすごく以外だった。しかし、この瞑想は技術であり、その技術を得るのにはなんお宗教だろうと関係がないという間口が開かれたものなのだ。そして10日間コースへの申し込みをそのコースが始まる前日に済ませた後から聞いたら本当はもっと早く登録しないと普通は定員でいっぱいになってしまうらしい。今回はなぜか少なかったんだって。というわけで今回は京都ではなくカトマンにおいでやすされたわけだ。そして翌日、10日間のコースが始まる。。。。。。。。








10日間コースの毎日のスケジュールはこんなかんじ。



4:00         起床
4:30~6:30    瞑想
6:30~8:00    朝食&休憩
8:00~11:00   瞑想
11:00~12:00  昼食
12:00~13:00  休憩&質問タイム
13:00~17:00  瞑想
17:00~18:00  ティータイム
18:00~19:00  瞑想
19:00~21:00  講和
21:00~21:30  質問タイム
21:30        消灯








マジでの1日10時間以上の瞑想。これがバイトだったらこの10日間で給料上がってますわ。ただこれはバイトじゃないんで、自分のためなんです。そしてこのなんともがっつり感が大好きです。100時間やってやろうじゃないの。頭の中の店長に給料あげてもらおうじゃないの。ブッタすら悟り開くのに何十年とかかってるけど、オレは開始ジャスト2時間で悟る!








そしてそんなアホな希望もすぐに消え伏せるこはこれ。
10日間の瞑想中には8つのルールが存在していてその内容はこんなもの。



1、なにものも殺してはならない。
2、盗んではならない。
3、すべてのセクシャルな行為を行ってはならない。
4、ウソをついてはならない。
5、薬物(麻薬など)を摂取してはならない。
6、昼12時以降はものを食べてはならない。
7、着飾ってはならない。
8、寝心地の良いベットで寝てはならない。
 







更にこのコース10日間の間は「NOBLE SILEMCE」というルールも適応される。訳すと「超静かにしてください!」ってことなんだけど、人と話してはいけないのはもちろん、文字を読んでもいけないし、ものを書いてもいけないというもの。10日間ずっと。つまり240時間自分の世界に入りましょうということ。10日間の間はもちろん外部との接触はできないし、なんもできません。瞑想して、メシ食って、ウンコして、寝るだけ!








このルールを知って、コースが始まる日の朝、日本食レストランに最後の肉を食いに行った。チキンカツ丼。
帰りに大好きなコーヒーを飲む。ああおいしいわーって、よく考えたら、こうやって禁欲になるからって食っておこうとかその考え方事態がおかしいわ。てかなんでおまえ禁煙してたのにここにきてタバコ吸ってんねん。このばかやろう。おまえなんか悟れないわって自分に言い聞かせてるときも片手にはマウンテンデュー。まあ硬くならずにジャンクを補給完了。だめねー。
 








昼過ぎ、NVC(NEPAL VIPASSANA CENTER)
のシティオフィスの集まって、そこからバンで山へと入っていく。30分ほど走って、そこはカトマンズ盆地が見下ろせる山の上。大昔、ここカトマンは湖だったんだって。今の盆地の光景は排気ガスが溜まってれまるで灰色の湖のように見える。オレはあんなに空気の汚いところにいたんだ。そんな思いと一緒に、携帯やカメラ、金やパスポートなど瞑想に不必要な世俗のものをVIPASSANA協会の人に全部預けた。つまりはもう逃げられないってこと。よーし覚悟を決めましょう。夕食であるベジダルバート(カレー定食)を食べた後、コースが開始させた。









この夜はオリエンテ-ション。ここでの生活の説明を聞く。
瞑想を実際に行うホールで話を聞いたんだけど、おれこれ、瞑想を教えてくれるのはどんな人かと期待しててさ。完全に手塚治虫『ブッタ』の読みすぎなんだけど。後光に満ちてるとか、そんな淡い期待をもっていて、その人がどんな話をするのかとわくわくしていた。ホールの中で列になって座る。あたりが音ひとつたてず静かになったときにその人は現れた。白い服を纏ったおじいさん。聞いた話によると何段階かあるうちに瞑想レベルのかなり上のほうを体得しているらしい。その人が静かに腰を下ろす。そして長い沈黙の後、重い口が開かれた?いや口は開かれない!おもむろにCDを取り出し、それをコンポの中に入れた。そしてスピーカーから違う人の声で瞑想の説明が流れ始めた。「なんでやねーん!」と、その一言もいわせてもらえない過酷な10日間が始まったのだ。1日3回はこうやって神々しく登場しては、瞑想説明CDを流す。それが毎回ツボだった。ただ、つけくわえると、「NOBLE SILENCE」の状態であっても瞑想の仕方が間違ったままでは何にもならないから、瞑想についてわからないことがあったら必要最低限の言葉をもってこの先生に質問をしていいことになってるんだけど、それで先生に聞きにいったときに圧倒されたというか、まず目が青く光ってるのね、なんであれ?話し方も独特だし。やっぱりレベル高いのかな。オリエンテーションが終わり部屋に戻ると、同部屋を一緒に使う白人のおじいさんがいた。初見だけれどもルールに従ってあいさつもできないまま、ぎこちなく目をそらしたりなんかしてお互いの夜が終わっていく。オレは心の中でこれからはじめる10日間、同じ部屋で「NICE TO MEET YOU」といい、さらにこの人のウンコがマジでワールドレベルにくさかったから「FUCK!」と言い、そして「GOOD NIGHT」と言って眠りについた。








朝4時、かすかに聞こえる鐘の音で目覚めた。やっぱ朝は寒い。
そりゃネパールだもんね。4月後半でも寒かったわ。山ん中ってのもあるし。くしゃみをするヒマもあたえないほど、朝支度を即効すませて4時半、鳴る鐘の前に瞑想ホールへと入っていく。








1日目。いよいと瞑想が始まった。
まずは体の今を感じる練習のために「ANAPANA」呼吸という呼吸法を実践。体の今を感じる。体の内側、内臓や血液の流れは自分の意思ではあやつることはできない。それは自然のままに動いている。体の外側、手や足を動かす、目を開くといったものは自分の意思で操っているもの。そして唯一体の外側で感じられるものであって、自分であやつっているものでないもの、それは「呼吸」。口を閉じて鼻のみで呼吸する。この呼吸、息の出入りする鼻に意識を集中させ、呼吸の今を、体の今を観察する。これがANAPANAだ。








これがものすごく難しい。よーし、意識を鼻の部分のみに集中させよう。。。。あっ、でも
30秒くらいするとどうしても何か別のことをイメージが浮かんでくる。過去の記憶がよみがえってきたり、これからのこと、未来のことを考えたりと、勝手に意識してないのにイメージがどんどん浮かんでくる。そしてわかりやすく言えば「妄想」ってやつ。最近オレはめっきり落語にはまっていて、自分が落語するならどんな話をしようかと妄想に耽る。「もしかし亭迷子」という芸名まで自分で決めて高座に上がって自分が落語を話しているところを思い浮かべる。1つのネタ、1つのアイデアがさらに繋がっていって新しいアイデアをどんどん生んでいく。この感覚が昔から大好きだった。とても気持ちがいい。創造だ。だからそれを消す作業がとても難しかった。少しずつ、少しずつ。鼻だけに意識を集中させていく。だんだんとなれていってその時間は延びていったけど、どうしても気を抜くと、「おい与太郎!バカいっちゃいけねぇ。。。」と「もしかし亭迷子」がひょっこり顔を現す。







次の記事に『VIPASSANA瞑想2』続く

2009年4月10日金曜日

インド・ダージリン インリン・オブ・ジョイトイトレイン!



正午すぎのオツなティータイム。ティーのにほいが辺りに舞い、幸せな時間(タイム)が流れる。おっと猫舌にヒット!あっちーよ!毎日のそんなハッピータイムを過ごしているとあそこに行ったときのことを思い出でがよみがえる。。。









「午後TEAが飲みたい!」そんなゆうちゃんぐーすの希望も日本にいるサントリーさんには届かず。サントリーさんのマジでリスペクトKINDNESSな考慮で日本中のコンビニやなんかに置いてある『午後の紅茶』もインドじゃ無理だってわけ。でもインドにはダージリンティーがあるよーってさ。紅茶よりもコーヒー派!コーヒーよりもJTの爽快ビタミン派の僕はそういわれてダージリンへ向かう。ガイドブックみる限りじゃダージリンの景色がすばらしいんだもん、これ。








ブータン国境から乗り合いバンを乗り継いで乗り継いでくねくねと山道を上ってく。標高があがるにつれてTシャツ、ジャージ、ジャケットっという具合にそれらが必要になっていく。ただ、すべてバックパックの中なんだよね、全部さ。こんなに寒いんだダージリン。山のふもとがウソみたいに寒いよ。平地と山ってこんなに違うんだね。子供は風の子、我慢我マン。








ダージリン。これが不思議な街でね、こんな山の中にあるのに車のショーケースがあったり、オックスフォードの書店があったり、このあたりの中心の町になってる。これら全部荷物運ぶの大変なのにね。不便じゃんか。でもこのあたりにはそういう仕事をしている人がたくさんいるってこと。荷物を運ぶポーターが。そして街はインド人であふれていて、車の行き来も多き。クラクションもあいかわらずうっさい。景色は変わるものの道の中はコルカタ以上の密度だ。現地の人と観光客ではっちゃかめっちゃかしてる。そしてこの街並、欧米列強の最強国に観光地にさせられたこの街はなんだか『冬の熱海』を彷彿とさせる。『11月の熱海』。坂の多い熱海。がんばってるのはわかるけど、すこしずれてしまった熱海のそんな部分。そのところどころにさっき言った『ポーター』たちがいて、くそでっけぇタンスとか運んでる。くそでけえタンスをひとりで運んでる。引越しバイトの比じゃないぜよ。





次の日の朝、ヒマラヤから昇る朝日ってやつを観に行った。毎年恒例の今年の元旦初日の出を観にいけなかったからね。アンコールとかいろんなところででは朝日みてきたけど、ここダージリンのこのかんじ。寒くて手をハーハーしてさ、足とか動かして体温めながら朝日を待つこのかんじが日本の初日の出待ってるときみたいでそってもよかった。現地の売り子さんがダージリンティーを勧めようとする中、それよりも先にコーヒーを頼み、日が昇るのをインド人とともに待つ。もうちょっと、、もう、、、、、「おー!」。インド人が一斉に声を上げる。この辺のリアクションは日本もかわらない。日の出には「おー!」だ。そして観たらすぐ帰る。これも変わらない。雨季に入る時期ではっきりとは観させてくれなかったヒマラヤの朝日。もやもやしている朝日のわりに、はっきりと頭に焼きついてきて感動的だった。








軽く散歩したあとはトイ・トレインに乗って下山。世界遺産トイ・トレイン。マジでちいさいおもちゃみたいな列車。江ノ電よりも地域接着型。その上汽笛がものすごく騒音で現地の人は耳ふさいじゃってるじゃないの!どっかのスーパー金持ちで江鉄道マニアのわがままボーイがノリで作っちゃったみたいな夢の列車!インリン・オブ・ジョイトイトレイン!こう書くととっても乗りたくなりますね。しかもこのトイトレインめっちゃ遅いの。徒歩ならわかんないけど競歩なら負けるね。たーだーし、この景色。山の景色をゆっくりと観るために遅いのさ。そしてきっと狭い山ん中だからこんなに小さい列車になったんだろうしね。山ん中を列車が走るっていうそんなありえないシチュエーションを楽しめる、ダージリンの車窓からは一見のの価値が充分にあるぜよ!










。。。お、おっとっ。私の大切なティータイム。ダージリンティーが冷めてしまう。懐かしい思い出だ。ってこんなな感じで書いて見ました。書き方最後ヘタクソ!じゃす!

2009年4月9日木曜日

ブータン・インド国境ジャイガオン どきどきモンゴリアン



世界って狭いなー。ごめん今調子乗ったね。オレの場合はアジアしか旅してないからアジアって狭いなーでした。まあそんなことでアジアって狭いなぁと感じることがけっこうありまして、日本で割りと近くに住む人、近くにいた人とこの旅でよく会うんですよ。中国麗江で出会った、もうこの旅で何回も再会している世界一周夫婦の奥さんは海老名出身でしかも厚商出身。オレの母校のとなりにある高校。バンコクカオサンのGHで会った人なんて同じ高校の1個上の先輩だった。そういえばカオサン歩いてたときに、同じ大学同じ芸術学部映像学科同じゼミの1個下の後輩に会ったこともあった。先日はインドコルカタのマザーハウスでこれもまた同じ大学同じ芸術学部映像学科、同じゼミ、しかも同じドキュメンタリー班の2個下の後輩に遭遇した。なんでやねん。この人たちからアジアの狭さを受け取りました。会ったときは超うれしいし、帰ってからも付き合っていけるっていうのはすばらしい出会いであるけれど、こんなに出会うなんてアジアの狭さを感じざるを得ない。新宿とか歩いてても会わない人たちになぜカオサンとかで会うんだ!そうそれは導きなのです!









コルカタのパラゴンという宿で仲良くなったお姉さんも同じ大学の建築学科の先輩だった。この人の旅の話を聞いているうちにオレは『ブータン』という国に1日だけ入れることを知った。インドとの国境沿いの街だけど1日だけ運がよければ入れるんだって。それは、インドの国境のJAIGAONという街にはブータン人がフリーで入れることになっていて、国境をよく行き来している。ブータン人の顔は日本人ととってもよく似ていて、日本人で日焼けしている顔だったらブータン人のフリしてそのJAIGAONから国境抜けて1日だけ入れちゃうよってこと。1日だけってのはビザがないから宿に泊まれないからという理由。まあつまりはあれですね、密入国ってことになるんですかね。もしかしたら。そんなにおいぷんぷんしてますね。密入国かどうかはあえて聞かないことにしよう。








だったらブータンビザ取って普通に入ればいいんじゃないかっておっしゃるみなさんそのとおり!でもこれには貧乏旅行者にとって切実な理由があって、このブータンという国、この国を観光するのには現地の旅行代理店を通して、しかも1日あたり250ドルというお金を使わないとならないんですよ。政府にこの金はいくんだろうけど、どの方法は主な産業が水力発電くらいしかないというブータンの、チベット仏教の国であるブータンの文化や伝統をグローバルっていうものすっごい強敵から守っていくのに編み出した方法なんですね。だから貧乏人はいけない国なんです。そしてブータンのイメージはやっぱり『幸せの国』。国民総生産に代わる概念、『国民総幸福量(GNH)』、その国の人がどれだけ幸せかどうかを数値にする概念を編み出した国。経済はあんまりあれだけどもオレたちは世界一幸せだえと言い切れるこのかんじ、とってもすばらしいじゃないですか。てかうらやましいー!民族衣装もギザカワユスだし、そんなブータンに前々からいってみたいって思ってた。そしたらチャンスが先輩からまいこんできたってわけ!きちんとお金払って首都ティンプーとか行ってきた人から見れば、インドの国境の街だし、そこはインドと変わんないって思われるかも知んないけど、1日だけでも少しだけでも感じさせてください!そんな幸せを!








バングラの国境から、ブリマリ(バングラ)→マイナグリ(インド)→ビッポラ(インド)→ジャイガオン(インド)→ブータンと進む。途中のビッポラって街で「あっ日本人だ!話かけよう!」ってコルカタでてから一人も日本人に会ってなかったからそう思ったらすぐに気づいて、「こんな僻地に日本人なんかいるわけないじゃん、なに思っちゃってんのオレっ」って赤面。「あれはブータン人だ!」これもう超クリソツ!周りのインド人にうきだって見えてさらによく見える。そりゃ例えば新宿の街並みにいたら日本人じゃないなってわかるだろうけど、ここではすごい親近感をおぼえる。てか同じ中学校だった米谷に似てんだ!その隣にいるお母さんは米谷のオカンにそっくりなんだ!ガラガラ声のオカン。そしてジャイガオンに到着。バングラからの移動の連続で頭の中はぐらんぐらんだったのでブータン行くのは明日に持ち越しだ。








翌日、晴天、ブータン(密入国?)日和!朝からジャイガオンにいるブータン人を観察してブータン人の癖や表情を研究する。バックパックに詰まった数少ない服の中から自称ブータンっぽいのをチョイス。「オレはブータン人、オレはブータン人」と自分に暗示をかける。。。俺はブータン人だ!いざ!








国境の門の前には監視員が1・2・・・5人。多いなぁ。でもオレはもうすでにブータン人だから問題ない。なにいってんの?ドキドキ。よーし。この朝青龍に似てるブータン人の後ろにくっ付いて門の前まで歩きそのまま通過。。。





って失敗!!!うわー失敗だよ!!!止められたよ(笑)
君の顔なら大丈夫だって言ったじゃないですか先輩!てかなんで今まで旅してた国で毎回現地の人に間違えられてたのにここにきてなんでしっかりしてんだよ。








ブータン語で呼び止められて、やばいと思って適当にハナモゲラ語で答えてたら、マジ喧嘩強そうな英語話すブータン人の若者が来て、






「君はブータン人じゃないね。日本人だね。」


「はい、日本人です。あっち側って入れないんですか?」


「入れないよ、あっちはブータンだからね。ここが国境。パーミッットもってる?」


「持ってないです。はいれないのかー、わかりました、ありがとう」








って言って、引きかえらずにブータンの方向に行こうとするオレの新喜劇的なギャグを「いやいやいやいやっ!」ってかんじにツッコミ入れてくれたのは『幸せの国』の証。その『幸せの国』を少しだけかんじられたかな。まあ悪いことはできないってことですね。トラックの運転手に頼んで荷台に乗せてもらって入ろうかとか考えたけどそれじゃマジで密入国んなっちゃうからやめた。いままで1日だけこっそり入国してた人たちももしかしたらこれから挑戦するかもしれない悪い人たちもきちんとブータンの国事情を理解して入るなら入りましょう。これじゃオレが入れなかったひがみになっちゃうけど。おっけーおっけー!  







インド側のジャイガオンで何人かのブータン人と話せたし、運がいいもんでヒンドゥーのハヌマンのお祭りもこの日にここで参加できた。改めてブータンにこいってことだな。おっけー、何年後かのなるかわかんないけど、なるべく早いうちに金もってきちんとはいってやるよ!この国境だけじゃなくていろんなとこ回ってやる!それまでにてめぇの幸せ完成させとけよ、ぶーたんぐーす!オレの幸せも形にしとくからな、ぶーたんぐーす!シーユーアゲインぶーたんぐーす!じゃす!




2009年4月8日水曜日

バングラディッシュ・ダッカ 命のリキシャ



インドのコルカタでこれマジで珍しいことに同姓同名の人と会ったんです。バンコクからわくわくしながらコルカタに到着したとき、何が伝説なんだかわからないが伝説の宿と呼ばれているパラゴンっていう病院みたいな宿でチェックインノートに記入してるとき、オレが「Yuki Ono」って書いてたら、スタッフが「わぁお!同じ名前の人がいるよ!」って見てみたらマジ。だからなにが伝説の宿なんだかわかんないこの宿はオレにとって伝説になったわけで(1泊だけしかしなかったけど、、、)。ただ、その人とはすれ違いんなっちゃって会えずじまいだったんだけど、オレが4週間もマザーハウスで働いてる間にまた戻ってきて会うことができた。話してきたら、おしい!!「ゆうき」は同じなんだけどその人は「小野」君、おしい!そしてそのONO君の話を聞いてみると、ONO君は「バングラディッシュ」という国から帰ってきたという。もう何回もバングラ行ってるんだって。コルカタいるならバングラ近いから行きなよってバングラ自体はここからバスで3時間くらいでいけちゃうし、首都のダッカへも14時間あればいけちゃうって知っちゃったからねぇ、これは予定ルートを少ぉし遠回りしてバングラへレッルゴー!!『小野』君が行ったなら『大野』君がいかなきゃ名がすたるってもんだ!








バングラのイメージは人口密度がすさまじく多い、なおかつ貧困な国というマイナスなイメージがあった。旅行者なんかが行っていい国じゃない思っていたから予定にはいれてなかったけど、最近は徐々にバングラへ旅行する人も増えてきているらしい。旅行人っていう旅行誌から『バングラディッデュ』ていうガイドブックもでてるみたいだし。あと日本と同じ国旗のアナザーカラーだね。セイムセイム!これ重要!








コルカタからバスで向かう。これがねぇ、毎度毎度のことなんだけど、バスがねぇ、うんこバスなんですよ。寒すぎるの。こう見えて冷え性なの。なんで暑い国の人はこんなに寒いの好きなの?そして暑い国なのに寒いの平気なの?我慢強さアピール系?中学んときとかそういうキャラいたけどかっこわるかったよ。まあ、コルカタでの疲れも同時にでちゃったのかもしんないけど、体調の悪さを感じてさ。でもクーラーはガンガンだし、風向ぶっ壊れてて止まんないしの拷問。こりゃリアルにやばいなぁって目覚めたら歩くのもままならないオノレノカラダ。








到着した場所がどこかもわからないのは不幸にも地図を持ってなうから。バングラ行きは勢いもあったので、もちろんガイドブックなんて便利本も持ってない。これはやっこうやばい。だんだん気力もなくなってくる。夜に到着したからあたりも暗く道が見えない。でもなんとかしなきゃいけないって、リキシャをつかまえてホテルへつれてってくださいって。英語通じなかったけど、オレがバックパックを持っていたのと、オレのフラフラ加減をみて、ホテルだとわかってくれて連れて行ってくれた。でもこれどこもフル。フルというかもしかしたらフルじゃなかったのかも。後で聞いたら普通の宿はあんま外国人は泊めてくれないんだって。そんなこと言わないでよ、オレの体はもうフラフラだよ。階段ももう上れないし、バックパックも持てない。1時間くらいはホテルを見つけてはフルだと言われそのたびにまたリキシャで違うところを探すを繰り返していくうちに完全に気力がなくなっていく。そんなギリギリのオレを見て、英語のできる人が話しかけてきてくれた。外国人だったらあそこのインターナショナルホテルならたぶん泊まれるよ!って。聞いてみる。よっしゃ、オッケー空いてる。助かった。。。。








その人とリキシャのおっちゃんに大いなる感謝。命を助けられたことになる。部屋に入って熱を計ってみたら『39.4度』。おいおいギリギリじゃねぇか。ベットにバタンと倒れちゃって、うがいして薬飲まなきゃってあせったけど、そのまま気力なくなって力尽きて寝てしまっていた。








マジでこのリキシャのおっちゃんに助けられた。これでホテル歩いて探してたらいつまでたっても見つからずにいてそのまま力尽きて、路上でそのままバックパック抱えたまま朝まで休もうという選択をして、さらに熱も上がり、事故などの2次災害も起きて死んでしまっていたかもしれない。マジで危なかった。改めて御礼を言います。ほんとうにありがとうございました。








本当にこの一件でいくら同じベンガル地方でコルカタと似たような場所に行くからって、しっかりした地図(しょぼいのは持ってた)は必要だし、何が起こるかわからないんだから、日本大使館の電話番号だけじゃなくて詳しい場所なども前もって調べ、そしてはじめに泊まるホテルくらいはあらかじめ決めておく必要がある。中途半端に旅なれたせいか、オレはそれをおろそかにしていた。深く反省する。








朝目覚めてうがいもできず薬も飲めなかったことにあせり、熱を計ってみる。『39.6度』。でも、寝たおかげで体力は少し回復して、そのままうがい、そして薬を飲し、水分補給。あったかい格好して寝た。寝苦しさの中、何回も起きたり寝たりを繰り返して、変な記憶がよみがえってきたりと、そんなこんなでもう2日3日たってしまったのかと時計を見てみたらいまだ昼前。時間の感覚が狂ってる。こえぇ。でも、熱計ってみたら37度代に下がってた。薬が効いたんだ。そこで安心せずに徹底的に寝る。運がいいことにこのホテルに常備されたチャイニーズレストランでスープを飲んで栄養を取って、そして睡眠も繰り返して、3日目には平熱まで下がり、外も少しだけど歩けるようになった。治った。本当によかった。








無理やりバングラへ遠回りできてしまったので、最長で4日くらいしか滞在できないので残りは1日。ただ無理も同時にできないのであたりをお散歩するにとどまった。そこで感じたのがこの2つ。人の感じや街はコルカタとあまり変わらないが、








リキシャの数が異様に多い。


外国人にすごく興味がある。








ずっとホテルの中にいたから気づかなかったけど、この街中、リキシャでマラソンしてるかのようにリキシャであふれている。車なんて1割にもみたない。オレはこのリキシャに命救われたから感謝の目を持ってそのリキシャマラソンを眺めていた。





そしてオレが歩くだけで人だかりができる。どっからきたんだー?とか、名前はなんていうんだー?とか」そんなん1日で100回くらい聞かれた。さらにビデオカメラだしたらはんぱないことになる。オレは「オレはアイドルか!?」と叫ぶ!50人くらいかな、そんくらい集まってるんだもん。パターンとしては、ビデオカメラだすたびに人が集まり過ぎて収集がつかなくなってるところを、待ってましたとばかりに英語堪能な人が現れて通訳に入り、オレが何人なのか、何をしているのかなどをそのゴチャゴチャに集まった人だかりに説明してそのたびの「おー!」とか「あー!」とかリアクションがくる。50メートルもあるいたらこの状態。幸せな意味でスチールもビデオもカメラはだしずらかったわ。先に進めないもの。






てか携帯のカメラで撮るなっつーの(笑)。そして次の日にはバングラの北、インドとの国境の街ブリマリに行きました。最後の日に日本で埼玉で仕事してたっていう関西弁のバングラ人のおばちゃんに会ったり、日本とバングラの文化交流を進めているという日本語堪能な人にあったりと、縁が舞い込んできたし、風邪も治ってバングラおもしろそうだなぁって感じてきたけど、先に進まなきゃね。残念。








結局1日しかみれなかったバングラディッシュ。ベットの上はバングラじゃない。その外の少ししかわからなかったけど、オレの命を救ってくれたリキシャのおっちゃんがいる国ってことは確かだ!じゃす!




2009年4月2日木曜日

インド・コルカタ 死を待つ人の家②



患者さんをピックアップしに行ったこともあった。『死を待つ人の家』からタクシーで通報があった現場まで行く。そこには一人の おじいさんが路上に座っていた。足がパンパンにむくみあがり、歩けない様子。もう何日をここにこうやって座っているんだろう。ものすごい悪臭を漂わせ、う んこやおしっこを垂れ流し、大量のハエがたかり、うなっている。ただ、うなっているだけ。そのおじいさんを乗せることを拒む運転手をなんとか説得してタクシー に乗せ、『死を待つ人の家』へ運んでいく。むくんだ足以外はガリガリに痩せて、必死でおじいさんは何かを必死で説明してくれてた。オレらが到着したときは行くことをすごくイヤがっていたが、病院かどこかへ連れて行くとわかると、手を合わせて何回も『ありがとう、ありがとう』って同じ後部座席に乗ったオレに言ってく る。オレなんてほんとなんでもないんだ。ピックアップの仕事を手伝ってくれって言われてついてきたにすぎないんだ。このおじいさんを運んでいくという行為 はしたけどさ。このおじいさんからオレはどういうふうに見えていたんだろう。


  





『死 を待つ人の家』に着き、汚れた体を洗っていたときもそうだ。服を脱ぐのを手伝い、石鹸と水を持って体を洗おうとすると、おじいさんはちょっと待ってくれと 言って脱いだ服を取った。その汚れた服のポケットから1本のビリーとお金を取り出す。10ルピー札が10枚ほどと少ない小銭。きっと物乞いでためたんだろ うその10ルピー札を1枚1枚丁寧にゆっくりゆっくり数えていく。そしてそのお金を水を持ったオレに差し出した。あれはお礼という意味だったのか。日本円 で言ったら200円程のそのお金をこのおじいさんはどんな気持ちで貯めたのか。足が動かなくなり、座ることしかできず、このおじいさんは。。。そんなこと を考えながらオレはおじいさんの汚れた体を一生懸命洗っていた。






こ こに来る人たちは身寄りの無い人がほとんど。身寄りがあってもそこでは生活できない人たち。インドの田舎から多くの人がお金を求めてコルカタにくる。だけ ど仕事なんてものは見つからず、そのほとんどの人が駅など人のあつまるところで物乞いをしている。コルカタの中心駅であるシアルダー駅とハウラー駅に実際 に見に行ってみたがやはりそういう人たちが多くいた。駅は雨もしのげる場所である。そしてひとつ気になったのが精神を患っている人が多かったということ。 マザーハウスの施設には精神患者さんの施設もある。こうやって生前、マザーテレサも駅に足を運んだんだろう。








こ のように『死を待つ人の家』は物乞いの人たちが多い。そしてオレには家族も友達もいた。テレビもあったし、本も音楽もあった。そんなことを考えながら焼か れる順番を待つ。この人たちは物乞い。物乞いはカーストに存在する。現在のインドのカースト事情がどこまで厳しいものかは詳しくは知らないが、ここにいる 人のほとんどがおじいさんだ。物乞いとして生まれた人生。人口密度の多いこのベンガル地方では仕事もない。その人生のほとんどを路上で物を乞いて生きてき た。路上には子供の物乞いもいる。そして多くの老人もいる。この路上で子供がこの老人へと変わっていく人生の過程を想像できますか?








そ してオレが運んできた2つの人の順番がきた。ブラザーと2人でその死体を持ち上げ、カマのすぐ前のレールの上まで運ぶ。運び終わる前に開くカマ。その2つの死体はレールの上を一息もつかぬ間に走りだす。ガタンッ。カマが閉ざされるとすぐに火を炊く音が聞こえ始めた。それを見ていたのはブラザーとオレだけ。この人たちの生きてき た人生の過程ではない。








DEARマザーテレサ。マザーの言っていたようにオレはこの人たちに愛をあげられていたのかな。昨日仲良く話してたおじいちゃんに、今日死んだおじいちゃんに、きちんとマザーの言うような愛をあげられていたのかな。マザーテレサさん、オレはあってたんですかね?








感 じること、考えることが多すぎた4週間弱だった。この旅の中で一番長くいた場所だ。普段はこんなんじゃないのにかっこわりぃ話、泣いてしまうことが多かった場所 でもある。まだ消化しきれてないことも多い。そしてここでの多くの出会いに感謝。これも長く居ついた理由のひとつ。特にスミコさん、風に立つライオン。19歳のときからおさえつけてたモヤ モヤをよみがえらせてくれた。医学への道の模索。『愛の反対は無関心です』BYマザーテレサ。かっこつける気はないけど、やっぱりオレは無関心じゃいられ ない!じゃす!




インド・コルカタ 死を待つ人の家①



インド、コルカタ、マザーハウス。この施設は世界的にあまりにも有名な聖者、ノーベル平和賞受賞者マザーテレサが作ったところだ。マザーテレサは死んでしまったけどその志はこの場所に残り、現在も続いている。日本でも多くのメディアで昔から取り上げられていてその存在だけはオレでも知っていた。旅行でインドを訪れた人の話を聞いてみても、多くの人がここを訪れている。人の話だけじゃ詳しくわからないから実際にオレもいってみようかななんて思ってた。けど、これも絶妙で、タイにいるときに一人のマザーテレサの下で働いていた人に会って詳しく話を聞く機会があった。その人の話を聞くまではインドはほかの目的もあるしせいぜい3日くらいだろうと思ってたけど、これは長くマザーハウスにいるべきだと感じ、2週間のつもりでボランティアに参加し始めた。それが結局4週間弱もいてしまった。今までの周ってきた土地で1番長く居た土地だ。









なんこかあるうちのマザーハウスの施設の中でオレが働いていた場所は『カーリーガート』というところ。通称『死を待つ人の家』。末期患者さんの終末医療をするホスピスみたいなところだ。カーリーというヒンドゥー教の神様を祭るカーリー寺院のすぐ隣にある。この寺院ではほぼ毎日、この神様カーリーに生贄をささげるために生きたヤギの首を生きたまま落とすという儀式が行われている。そんな寺院の隣にこの『死を待つ人の家』はある。てかさ、これネーミングもすごいよね。ダイレクトすぎるっていうか、はじめに名前付けるときにもう少しオブラートっていうやつにつつもうとかしなかったのかな。『八百屋』だって『八百屋』ですよ。けっして『野菜売り店』じゃないわけで。その辺は日本との違いかな。まあね、わかりやすいほうが一番!マザー、ケチつけてごめんなさい。









ここにボランティアにくる人たちをを大きく3つにわけることができる。「旅行者」、「医療関係者」、「クリスチャン」。働く期間ではなく、純粋人数でいったらこの順で多いことだろう。そしてそれぞれがそれぞれの目的できていて、そのそれぞれの理由がすばらしいものばかりだった。マザーテレサの作った施設を人目見てみたい。、アザーテレサのように生きたい。。。そして旅行者のわりにわりと長くいたオレは医療関係の人と長く一緒にいることが多かった。来年から看護学校に入るために一度ここで自分を試したいという人。医者という職業に疑問を持っている医学生。。。どの人からの話もとてもためになることばかりで、この人たちがいたからというのもコルカタに長くいてしまった理由のひとつだ。本当に長い人はフォーエバーって人もいるからオレの期間なんてオレのちんちんみたいに短いからそんなにはあれですけど、旅行者のわりには長くいたほうだと思う。









そしてここからはまじめな話。そしてオレはここでインドの人のためにボランティアしたいという純粋な目的で働こうと思ったわけではない。半分は体験としての医療の仕事。そしてもうひとつは自分が高校のときに体験した死を、それを7年たった今改めて感覚してみたかったからだ。だから数ある施設の中でオレはこの『死を待つ人の家』を強く希望した。ここは世界中から人がボランティアに来る場所だし、春休み中につき人が多くて希望がなかなか通らない中、なんとか『死を待つ人の家』でボランティアする機会を得ることができた。






ここでのボランティアの仕事。朝8時に施設に入り、主に汚れた衣服の洗濯、入浴、トイレ、食事等の補助、あとは患者さんに頼まれたら水もってきたり、マッサージしたりと介護の仕事経験のないオレでも約1ヶ月なんとかがんばってできた。ただ、患者さんの数は男50人女50人と多く、言葉の不自由もあるし、トイレに患者さんを運んでいるときに腰に抱えた爆弾が爆発したりと不便はある。こんなこといっちゃダメなんだろうけど、正直初日とかは患者さんがもらしてしまったうんこを片つけるのとかイヤって思ってしまった。正直、うんこ好きな人なんていないでしょう。そういうことは仕事は仕事とわりきってやってた。








オレに課せられた介護という仕事に奮闘していく日々が続く中で自分の中に1つの変化が芽生え始めた。そもそも介護の仕事を将来の目標においていないという理由かもしれないが、4、5日経ったくらいから介護を目的として『死を待つ人の家』にいくというのではなくて、近所に住むおじいちゃんの家に遊びに行くっていうかんじ。決してその言葉どおりサボって遊んでないし、仕事はきちんとやっていたことを前置きに。4、5日経ったあたりから患者さんであるおじいちゃんたちの顔もわかってきたし、おじいちゃんたちもオレの顔を覚えてくれたみたいで、お互いコミュニケーションのスムーズさと深さができてくる。「おはよー!げんきー?」とかさ。だから昨日まで話をしていたおじいちゃんが今日ベットからいなくなってしまったときはオレはふるえがとまらなくなって仕事場から離れて泣いていた。『死を待つ人の家』でそれは死んでしまったということだから。なんだかんだいってもそういう場所だった。









1度だけ、この『死を待つ人の家』で唯一、クーラーの効いた部屋である死体安置所から死体を運ぶ仕事をしたことがあった。近くにある火葬場まで2人の死体を運んだんだけど、冷たくってさ。もう『生』が消えて、『モノ』になってるんだよね。真っ白い布でくるまれた『2つの人間』になってるんだ。その2つのモノを火葬場のカマまで運び、そこでほかからやってきた人もあわせ、人が焼ける順番を待っていた。そんときは自分の中に中にと思考がぐいぐいと入っていく。どうしても頭に浮かんでしまう。もしかしたらオレもこうやって焼かれていたのかもしれない。そりゃふるえるわ。ただ決定的に違うことがある。オレには家族もいたし、友達もたくさんいたってことだ。






次の記事『死を待つ人の家2』に続く