2008年12月30日火曜日

タイ・バンコク SOWASOWA



バンコク。中国からゆっくりゆっくり南下して西を目指してタイって国に初めて入っることができた。やっとタイ到着だよ。タイのいろいろ「見タイ、聴きタイ、歌いタイ!」って、これ日テレでやってたヒデちゃんの「夜もヒッパレ」。日テレ黄金期を支えた番組。知念里奈とかスピードとか覚えてますか?シェムリアプから陸路でカンボジアの国境ポイペット抜けて、タイの国境アランヤプラテート。








イミグレ抜けたとたんに物乞いの子がなんかちょうだーいってきたから俺はちょうどもっていた甘くないマンゴーを渡した。そしたらその子それを捨てやがった。甘くはないけど捨てるんだったら俺食ってたわ!ここはシェムリとは違うっタイね。








バスで一気にBANGKOKへ。これね、バスで走ってて窓から景色みててね思わず叫んじゃう、「この超都会!」ビルディングTOビルディング!日系企業の広告看板の数々。うわーきたぜ都会。とかいいつつ(韻踏んでる)今までずっと田舎を旅してきたからちょいっとびびってる俺。そしてバスはカオサンというバンコクでというか世界的に有名なバックパッカーが集まる場所へ着いた。








うわぁなにここ。ぐちゃってるわー。ネオンネオンネオン。酒煙。酔っ払いの意味わかんない叫び声。おみやげ売りの民族のおばちゃんを怒鳴りつける。耳が痛くなるオーバーなトランスがスピーカーから流れる店の隣の店も爆音でトランスそのお向かいも。おっぱいはみでたタイ人のパイオツ姉さんと手をつなぎながら歩く外国人おっさんのかっこつけた顔。おいおいごちゃごちゃじゃねぇか。まさに『夜もヒッパレ』、朝まで続いてる。うーん、ここはなに?たっぷりの愛嬌をこめて俺はここカオサンを「カオスさん」と呼ばせてもらうことにした。









ほんとそわそわしっぱなしだ。俺は満月の夜にそわそわすることがある。もしかしたらこの日は満月だったのかな。月に満月の日にそわそわするからといって超人ハルクばりに変身したり、「予感がします」とか言って特殊な能力に発することでは決して無い。ただひとりそわそわして閉じこもってるだけ。ここはそんなところ。ここは満月。泊まったドミもそわそわしっぱなしで正直きつかった。なんでこんなにそわそわしてんだろう。








そうそう、そして俺のビデオカメラが壊れたんです。もう最悪。こんな最悪なことはない。シェムリで壊れました。バイヨンという遺跡の中で地元の子と鬼ごっこしてたときだと思う。撮れるは撮れるんだけど、ディスプレイが壊れて、なに撮ってるかわかんないし、タッチパネルもさわれなくて設定が変えられない。ただ運がいいのはシェムリの後が超越未来都市超都会バンコクだったってこと。ここにはソニーのサービスセンターが何個かあって聞きに行ってみることにした。バンコクは初めてだしソニーがどこにあるのがぜんぜんわかんなくて住所だけもってただふらーっとどうしよっかなって歩いてたら中国大理で一緒だったシンジさんユウタくんに会った。おひさしぶりですって。なにしてるんですかーって聞くとなんとその人たちも今からソニーに直しに行くところだって。奇跡的ー。思い出話に花咲かせながら向かう。懐かしいですね。シンジさんは人生の総計1年半はバンコクに住んでいてバンコクの様子もかなり案内してもらった。そしてこの人たちに会わなかったらたどり着かなかったわ。ソニーについて聞いてみたところ年末年始はサービスセンターやってないって。あいやー。








とにかく時間がナッシングでマイッチングだ。年越しはミャンマーで迎えたい。エアアジアの空港カウンターへチケットを買いに行ったりガイドブックを仕入れたり。ここバンコクでは事務的なことしかできなかった。ビデオはタイにまた戻ってきたときに直すしかない。ミャンマーはなんとか現状でがんばろう。ってけっこう軽くかいてるけどこんときは正直かなりテンパってたんですよ。だってカメラ壊れたんだもの。しかしやるしかねえぜえ!








ミャンマーヤンゴン行きチケットが翌日便で買えて、さぁてって日本人街ってとこにガイドブックを探しに行ったときにまたまた中国大理で一緒だったシンジさんと偶然会った。その人にフジスーパーに連れて行ってもらった。そう、ここバンコクにはおなじみフジスーパーがあるんです。そこで見つけたもの、『そば』。そうだ、年越しはミャンマーで年越しそばを食べよう!こういう文字が頭をよぎったもんだからソバにツユにノリ。100均みたいなとこも近くにあってそこでざるとつゆいれる竹製のうつわも買った。それからこれも大事。墨汁と筆と半紙。ミャンマーで書き初めできたら素敵やんって。うおー、一気に年越す準備が整った。待ってろミャンマーちゃん。明日の朝早く行くけど起きててよ!そんなことより早く『カオスさん』を抜け出しっタイ!じゃす!

2008年12月26日金曜日

カンボジア・シェムリアプ 孤児院へ行くことへの葛藤




モンゴルの孤児院へ遊びに行っ た経験は血肉になったことが多かった。アジアを旅しているとカンボジアでボランティア(孤児院や井戸つくり)へ行ってたよーって人を多く見かける。その人たちの勧めもあってカンボイジアではなにかお手伝いさせていただきたいなと思っていた。ネットで探していたのだがその多くが「よう若者!今年の夏はボランティアで青春しようぜ!」み たいなノリのデザイン。なんかなーって。結果的には行動において援助できてるのかもしんないけど。ちゃっとなんかなーってひっかかっててどうしようか迷ってた。そしたら シェムリアプへついた当日に出会った人が近くの孤児院へ行っているということでご一緒させてもらえることになった。縁ですね。NGOが関わっていない孤児院。









まあ孤児院へ行くって言ってもボランティアでもなんでもないしお手伝いでもなんでもない。俺はただ子供たちと遊びに行くだけ。この旅の中でかなりの子供好きになったかもしんない。日本以上に子供とかかわることが多い。これも海外の魅力かもしれない。例えば日本だと、同じ大学の立元K助くんという体毛が尋常じゃなくに濃い友人がいる。その立元くんは体毛も重なって見た目は怖いのだが心はすごくやさしい子供好き。よく公園へ筋トレに行くらしくそこに子供がいるとどうしても遊びたくなる。といってもかってに子供から寄ってきて一緒に遊んでいるらしい。でも後からその場に来た親御さんたちがすごく不審な目で見てくるという。そういう事件が絶えない日本では当たり前なのかな。海外でもそうかもしんないけど。そしてこの孤児院、俺は小さい子とも遊ぶけど、ここの孤児院に関してはバレーのネットが外に張ってあって大きいお兄ちゃんたちがそこでバレーボールやってた。うん、そうなんです、僕中学の時バレー部だったんです。東高出身大学生バレー部、あの伝説の『マメちんズ』以来のバレー。仲間にいれてー!てか強いねん!アンダーで手痛いねん!うまくてたちうちできなーい、でもおもいろーい!夕方から始まるこのバレーに通っちゃたよ。マメちんズは継続中ですか、輩たち。






そんなこんな孤児院へ通う中、孤児院へ向かってる途中の道で、会った一人の長期滞在の大人が俺に対して言ってきた。孤児院へ行く旅行者全員に関係してること。








「孤児院が見世物小屋になっている」









ここの孤児院は多くの旅行者が訪れる。その理由はさまざま。子供と遊ぶためだったり、孤児院を見学してみたかったり。この人に言われて、このやろうちくしょうと思ったけど、言葉のニュアンスは悪いが言いたいこともよくわかる。確かにこうやって金もっていろんなとこ旅行して楽しんでる外国人がふらっと孤児院へ行くこと自体もしかしたらよくないことかもしれない。もしだけど、もし俺が孤児院にいて中学生くらいの時だったら俺はすれてるからそういう外国人に文句言ってたかもしれない。ここの子達はどうなんだろう。ここの子たちは快く俺をバレーに誘ってくれる。俺がただそう思ってるだけで実際はもしかしたら嫌なのかもしれない。でもバレーが終わったあとも、好きな女の子の話したり、靴を隠して遊んだりとそういう時間が楽しかった。この日以降はそのことばかり考えていた。しかしこれだけは言えることがあって、俺は見世物小屋を見に行っているつもりはない。それでいいんじゃないかと思った。








シェムリにいる間、ゲストハウスのレストランによく来るKさんの紹介でもうひとつ孤児院へもお邪魔させていただいていた。こちらは地雷被害に会った孤児たち。性格に言えばその理由も重なって親が面倒見られなくなってしまった子供もいる。ここを紹介してくれた本人、Kさんが個人で管理しているところだ。ここの子たちは地雷を踏んでしまって足が吹き飛んだ子もいれば、地雷を手に持って、これなんだろうって叩いてみたら爆発して、手が吹き飛んだ子もいる。






初めてここを訪れた日、一人の子と自己紹介してよろしくって言って握手を求めたとき俺が右手だしてて、その子は地雷に吹き飛ばされて右手がなくて、左手で握手してきた。いつものクセで無意識に差し出した俺の右手。正直そのときは戸惑ってしまった。けど、これKさんも言ってたんだけど、ここに通っているうちに手がないのも足がないのもひとつの個性に見えてくる。五体満足の俺が言うのは間違いなんだけど、変わらない。個性なんだ。年も近いせいかお年頃恒例のエロ話で盛り上がったり、厚紙を丸めてラップの芯状にしてそれを吹き飛んだほうの手につけてロックマンみたいにしてそれで戦ったり。最終日にはみんなでカレーパーティー。ここでも楽しく遊ばせてもらった。




そしてここボランティア大国カンボジアには多くの問題点があることも教えてくれた。もうしわけないがここには書けない問題ばかりだ。きちんと調べてまた機会があったら載せていくかもしれない。この経験をきちんとアウトプットしていきたい。まあとにかくボランティア大国ってネーミングが悪いんだよ!今は良くない事情を抱えたカンボジアもこのKさんの意思を継いだこの子たちがカンボジアを変えてくれるに違いない。

2008年12月25日木曜日

カンボジア・シェムリアプ 誕生日とクリスマス




クメール陣が作ったアンコール遺跡。その歴史は古く9世紀にさかのぼる。電波少年アンコールワットへの道でおなじみの(覚えてるかな)誰もが知ってるアジア最大の遺跡群。周辺国の侵入や戦いでこのアンコール朝が衰退してからこの遺跡はジャングルの中に埋もれてしまった。19世紀になって発見されずつ修復されて現在に至る。てかこの遺跡発見したときめっちゃテンションあがっただろうな。俺が発見したかったわ。そして遺跡の修復には日本もかかわっていて日本も協力してますよーみたいな看板をいたるところに見る事ができる。このアンコール遺跡群のある街シェムリアプとは「シェム(=シャム人)」「リアプ(=出て行け)」という意味だって。土地の名前になるくらいこの歴史ある文化を隣国がほしがったんだろう。国の歴史をプラスしたかったんだ。








世界的にも有名な遺跡とあってものすごい数の観光客で遺跡の中は埋め尽くされていた。広大な事と、ここアンコールにて誕生日を迎えるだろうあって、自分への誕生日プレゼントに1週間券(60ドル)を買った。ギザたかす!








アンコールワット、アンコールトム、宇宙の中心バイヨン、宮崎駿がラピュタのモデル(キョシン兵がいたとこ)にしたといわれるベンメリア。このアンコール遺跡群、どこを撮っても画になるねーなんていうけど、どこを撮っても観光客が写真の中に入り込む。それくらい世界中からこのアンコールを観にきてるのだ。








あと遺跡ってすごくくさい。シェムリアプにいる間長く行動をともにしたユウコさんは、遺跡の中にはトイレがないからみんなそのへんにおしっこしちゃうのよって、ものすごく真実味があって現実的な正解を教えてくれた。けど、俺は違うと思う。もうすこしロマンチックベイビー。この匂いは9世紀アンコールに住む人たちが残した「時のにおい」だ。当時の生活のにおいが1000年以上のこっているんだ。うーむ、確かにおしっこくさい。






予定通り誕生日をここアンコールで迎えることになった。トゥクトゥクを朝からチャーターして早朝、アンコールから昇る朝日を観にいった。バイカーのユウコさん、世界一周経験のあるナオミさん、大学生のユウタくんも一緒に。まだ暗い時間にもかかわらずアンコールワットには人がいっぱい。そしてみんな良い写真をとろうと必死になっている。三脚争い。けっして朝日を直接目で観に来たんじゃなく、ファインダー越しに見にみた人たちだ。俺が撮っていたビデオカメラの前を平気へ入ってくるし、きれいな朝なのにガツガツしてていややなーって思ってたけど、それはきっとこの人たちは俺という人間の記念すべき誕生日のために世界中から仕事忙しいにもかかわらず、俺がアンコールにいるからって言ってあつまってきてくれて、その記念すべき太陽が生まれる瞬間を写真にやきつけにきたんだと思う事にした。そりゃ必死になるわ。みんなありがとう。








待つ事30分、アンコールワットがだんだんとオレンジ色になってきた。ゆっくりとその色が濃くなってきて、はいぽーん!生まれました!いやぁ誕生日をアンコールワットで迎えられるなんて幸せだ。旅を始めてから6ヶ月。無事ここで誕生日を迎える事ができました。おめでとう俺。ありがとうアンコール。





太陽にすっかりくぎずけになっていると、一緒にきた3人がハイっていって誕生日プレゼントをくれた。これがすごいんですよ。「ゆうきちゃん」って日本語で書かれたカンボジアのスナック菓子。カンボジアのお菓子会社のコピーライターはなぜ「ゆうきちゃん」という日本語を起用したか疑問にのこる。けど、そのネーミングも、そしてこの3人がこのお菓子を昨日スーパーで見つけた奇跡も、「必然」っていう神様からの贈り物だったんだろう。ありがとう神様。ありがとう宇宙。そしてユウコさん、ナオミさん、ユウタくん。




誕生日の後はすぐにクリスマス。これもゲストハウスのみなさんとプレゼント交換なんていうオツで青春パンクなご企画。こういうの好きなんですよね。1人3ドルまでのプレゼント。なんか普通に買ってくるのもあれだしと思っててさ。ほぼ初対面の人たちに下ネタはありかとか、さんざん悩んだあげく俺は旅で始めた一眼レフを利用して写真集をつくることにした。バイクタクシーの写真集。アジア、そして旅といえばバイクタクシーということで挑んだプロジェクト。今までも撮りためてたバイクタクシーの写真とその日に足りない分を撮り直して、さらに俺がバイタク乗ってるとこを撮ってもらってそれえお表紙裏のプロフィールに載せてやっとこさつくりあげた。現像費2ドル。3ドル以下成立。





ややすべるかもという不安要素を含んだこのプレゼントはオタマくんという北海道で農業をやってるお兄さんにあたった。彼は旅にカメラを持ってこなかったってのと、バイクタクシーのおっちゃんが大好きだってこと。ウケ狙ってたつもりがすごく喜んでくれた。オタマ君にこのプレゼントがあたったのもなにかの縁だろう。この写真集、完全オリジナルだし、数年したら500万倍くらいの価値がでるから大事にしてね!





そしてこのアンコール遺跡群。ここにはアンコールマジックという恐ろしいことがある。あまりに広大で美しい遺跡も1日みたら飽きてしまうという世にも恐ろしいものだ。アンコール遺跡群のチケットは1日券(20ドル)3日券(40ドル)7日券(60ドル)とかなりおたかい設定なのだが、たいてい60ドルは高いし、1日じゃ見れないからっていって3日券を買う。だけど1日して飽きちゃって、そういう人たちでゲストハウスは埋まっている。これがアンコールマジックだ。俺はそのマジックをうまく付き合いながら、遺跡のてっぺんで読書したり、そして宿の人から譲り受けたガイドブックによってことなきを得た。ヒンズー教と仏教の混ざったこの遺跡を観るには知識も必要なんです。アンコールへお出かけの際はガイドブックをおわすれなく!





そして何よりこの遺跡の中で楽しかったのがおみやげ売りの女の子たちと遊ぶ事。毎日同じとこで飯食ってて、初めのうちはそこにいる子たちにしつこく売られてたけど、だんだんと顔なじみになっていく。つまりは友達。チケットが切れる最終日、女の子たちがバイヨン(遺跡の名前)行こうよ!って誘ってきて、おみやげほっぽりだしてみんなで入っていった。なにをするのかと思えばその中で鬼ごっこ。これ、アンコールにはじめにきたときにテレビの企画かなんかでこの中で鬼ごっこしたら絶対楽しいだろうなって思ってた事が現実になった。宇宙の中心として作られたバイヨンの中で鬼ごっこ。この子たちはアンコール世界遺産に住む地元の子。隠れる場所を知ってます。ワーワー言いながら騒いでたら、ガイドできていた人にめっちゃ怒られた。女の子たちの平均年齢約7歳、俺24歳。もう大人なんだから。じゃす!


2008年12月14日日曜日

カンボジア・プノンペン スモーキーマウンテン

キリングフィールドの帰り道。バイタクのおっちゃんにここプノンペン市内にあるゴミ捨て場に連れて行ってもらった。おっちゃんが言うにはスモーキーマウンテン。去年、四ノ宮浩という方のドキュメンタリー映画『神の子たち』という作品を観たことがあった。これはフィリピンのゴミ捨て場、スモーキーマウンテンの記録だ。それと同じような場所がプノンペンにもあるということでおっちゃんに連れられて観に行った。









スモーキーマウンテン。おっちゃんと俺がスモーキーマウンテンがある場所へ近づいていくとものすごい臭いがたちこめた。徐々にその周辺を走る車はゴミ収集車だけになる。もう少しだ。バイクが進む方向を見るとほかは真っ青な晴天なのにそこだけどんよりした煙でおおわれている。急にバイクが止まる。「ここちょうど煙の山見えるから写真撮りなよ」って、そういうのありがたいけど臭くてやってらんない。再びバイクへ乗り込みスモーキーマウンテンへ向かう。






だんだんと濃くなる臭い霧の中をかきわけて行く。路上にゴミが散乱し始めて、さらに濃くなる霧の中、スモーキーマウンテンに到着した。ここ、プノンペンの中心から少し離れているだけで回りには住宅街が広がっている。そしてゴミの山。様々な種類のゴミ、というかすべてのゴミがここに集まってくるんだろう。そのゴミをブルトーザーが書き分けショベルカーがすくいだす。という間にもどんどんゴミ収集車が集めたゴミをここにためていく。頭が痛くなる光景、臭い、煙。ここへ来る前におっちゃんがひとつ注意だと言って、煙が危ないからゴミ山のインサイドのほうには行くなよ、泥棒とか悪い人もいるしアウトサイドから観るだけだ、って言われた。それなのにこのおっちゃんそんなこと忘れてずかずかインサイドへ入っていく。待ってて迷子になったら終わりだし、おっちゃんについて行くしか選択肢はない。この煙、確実に体に毒だ。それは冒頭で書いた「神の子たち」を観て知っている。









インサイドにはおどろくべき光景が広がっていた。








ここで生活している人がいた。このゴミ山の上に家を建っている。そしてこの人たちはここに集めたれたゴミを拾ってそれを売るなどして生活している。さらに驚くべきはゴミの山の上、限りなく噴出する煙の上に屋台が並んでいた。ちょうど昼時だったこともあるがその前で飯を食う人がいる。驚くべき光景が次々と目に煙と一緒に入ってくる。ゴミの上をさらに入っていく。足元には目を疑う大量のハエ。うわーっとびっくりしてたら、おっちゃんがこっち見ろっていって、そこにはウジ虫の大群。それ見てもうだめだって思っておっちゃんに言ってアウトサイドへ急いで逃げた。





帰りに発見したのはこのゴミ山の隅っこに学校が建っていたこと。その前で子供が遊んでる。ゴミの山の斜面をゴミである車のフロント部分をソリ代わりにして遊んでる。ここもなんなんだよ。ゴミから出る煙。確実に体に毒だ。「神の子たち」ではそれによって病気になったり奇形児が生まれたりしていた。ここプノンペンでもきっと存在しているだろう。









俺はゴミ拾ってそれ売ること自体にも疑問があった。ここのゴミ山についていろいろ気になっていて、たまたま見つけた記事にここであるひとつの問題について書かれていた。









ゴミ山で生活する人に向けた高利貸しの存在。


貧困から抜け出すために、ゴミ山の中から使えるものを探し出してそれを売る。もちろんたいした金にはならないが普通ならそのゴミ拾いの生活からある程度したら抜け出せるという。しかし今の世の中、日々お金ってやつは必要なもので、お金が必要なときに借金をすることになる。ここがやっかいで、そのゴミを拾って生活している人たちがお金を借りる相手が高利貸しなのだ。そもそもそういう人しか貸してくれないのかもしれない。一度借りるとその暴利によって、利息分を返すのに精一杯になってしまう。いくら返しても借金は増えていくばかり。もうはじめに借りた額なんてとっくに返してるのに利息だけを返し続ける。いつまでたっても借金が返しきらない。いつまでたっても貧困から抜け出せない。その悪いルーティーンから抜け出すことはできない。だからここにいる人たちは悪いガスの立つこめるこのゴミ山でゴミを拾い生活しているのだ。そのゴミ山の脇でばかでかいハマーが走ってるのをみた。ここカンボジアには日本でもびっくりするくらいの金持ちもいるという。その格差の幅。平均月収をだすこと自体がナンセンスだとカンボジアに住む日本陣が教えてくれた。









これが貧困か。2つの言葉がある。





『貧困は最悪の形の暴力である』 byマハトマ・ガンジー




『1枚のビニール袋を作るのにかかる時間は1秒で、使用期間は約20分、分解されて自然に還るまでには100年~400年を要す』 by国連環境計画





2008年12月13日土曜日

カンボジア・プノンペン オシリペンペン

ベトナムでドクちゃんに会えたという余韻を残しつつ、カンボジアのプノンペンへ。ここカンボジアのイメージ。地雷、ポルポト、少女売春、そしてうちの大学の大石芳野先生。大石先生以外のイメージはどんよりとした悪いものだ。いやいや辞めよう。先入観はなるべく捨てましょう。ではカンボジア入ります。








てかてか、これとてつもなくアホなんだけど、ミャンマービザが切れそうなんです。最近まで取得するのが難しかったミャンマービザを中国昆明で運良く取れたんだけど、これが計画性のなさでね。とんだアホですアホウです。だけど計画性なんてね、大事だけどその場所に対しての興味があるつづける限りそこにいたいじゃん。それども俺の運がいいのはここプノンペンでもミャンマー大使館を発見できたこと。イチカバチカでこのビザの期限ってやつ延長できないでしょうかって聞きに行く。日本のモンゴル大使館では、いいよーって言って正式にプリントされたビザの上から近くにあったボールペンでささっと期限を書き直してくれた。だからミャンマーもできるかなって思うのが甘いんだよね。ムリですの即答。でもそしたら新しいの作ってあげるよってことになって申請することにした。なんで、1泊で出るつもりのプノンペンに3泊することになった。








キリングフィールド。


名前の通りポルポト時代に大虐殺が行われていた場所だ。はじめにそのエリアに入って目についたのは中央にそびえ立つ塔。ここで殺された人たちの頭蓋骨の塔だ。その数8000個以上。なんてものが世の中に存在してるんだ。あまりにも現実離れしている。まるでおもちゃみたいに見えるそのガイコツ。頭の部分になにかの鋭器で貫けれただろう穴が開いてるもの。いったいなんなの。そんなのがずらっと並んでる。塔の周りはうっすらと芝生は生えていてそこに無数の穴ぼこがクレーターみたいに空いている。ここにこのガイコツたちが埋められていたんだって。当時のものだろうボロボロの衣服も散乱している。俺は入院していたときの記憶が薄れていく。必死に生きようとした気持ちが崩れおちそうになる。







今回、旅を始めてから一眼レフが面白くなって「あっ!」かんじたものを写真に収めてきたが、死体を撮ったのはここが初めてだ。しかも一度のシャッターで何人もの死体が写真の中に入り込む。ガイコツだって死体なんだ。まるでおもちゃみたいに見える。そんくらい現実離れした光景と現実離れしたことが実際この場所で行われていたんだ。想像することすら俺は嫌だ。もうここにいたくない。白人の女の子が大声で唸り泣き出したのを見て、逃げるようにしてこの場所から出て行った。









ストゥーレーン刑務所。


ここはポルポト派による収容、そして拷問が行われていた場所。キリングフィールドでふらふらだった俺にいきなりとびこんできたのは手の無い人、足の無い人、顔がつぶれた人。マネーマネーって。そこからも逃げるようにして中へと入っていってしまった。当時のまま残されたベットが置いてある部屋の壁にはここで拷問された人の変死体が写る写真がかけられている。ベットの下には黒い染み。血だ。ベットを触ってみるとものすごく冷たいのはあたりまえなんだけど、吸い込まれるっていうか、怖くなってすぐに手を離したのにぬめっとした違和感が残り続けた。そしてここは元は高校だったという。それを改造して拷問刑務所にした。ほかの教室を行くとずらりと並べられた証明写真。殺される前に取られた写真。殺す前に証明写真を撮る。そして撮られる。いったいどういう気持ちだ。無理矢理作られた真顔の写真からは苦痛の渦が伝わってくる。子供の写真。もう見てられない。拷問器具の展示なんてすっ飛ばして俺は出て行った。




74~79年。ポルポト政権。カンボジア0年。そんなに昔の話じゃない。おれの5個上の人たちはもう生まれてる。アジアという日本と同じ場所で現実離れした出来事が起こっていた。そして今も元ポルポト派だった人たちもここカンボジアで生活しているんだろう。今日乗ったバイクタクシーのおっちゃんも、隣で飯くってる人も、身近にそうやって共存してるんじゃないかな。あんときは逆らったら俺も殺されてたから恨みっこなしだって言ってもムリな話だろう。








カンボジアで会った一人の青年が言っていた。あのときカンボジアで内戦がなかったら今のカンボジアというアンコールからの歴史ある国は隣国の乗っ取られてなくなっていただろう。そういう意見もあるってことか。どよめく感情の渦。この国はいったい。

2008年12月9日火曜日

ベトナム・サイゴン ベトちゃんドクちゃんのドクさん




サイゴン。現ホーチミン市。こりゃ北に都ハノイよりバイクがものすごい。これね、輩ですよ。もうほんと暴走族。おじいちゃんもおばあちゃんも、中学生くらいの子もバンバン飛ばしてる。みんな小さいころから『特攻の拓』読んでるだろうし、『湘南純愛組』は各個人の家にコンプリートしてる。『ヤンキー烈風隊』とか1世代前の渋めなの読んでる可能性もある。そして『頭文字D』とかは絶対読んでない。車の数がマイノリティすぎる。集団暴走の数がはんぱない。ホーチミン中がバイクであふれてる状態なんす。








そんなくだらんことは置いときましょう。上のこの写真の彼、だれだかわかりますか?一人のぽっちゃりテンパボーイはまあオレとして、もう一人の人、実はベトちゃんドクちゃんのドクちゃんです。今はドクさん。結合双生児として生まれたグエン・ドクさん。








ベトナム入ったときから彼の存在を意識してて、小学生の時観たドキュメンタリーの記憶と言えどかなり鮮明に残ってる感情。大学でドキュメンタリーを勉強しようとおもったきっかけのひとつに確実になってる存在。前々からベトナムのサイゴンに住んでるって情報だけは聞いてた。








それでサイゴンに来て、情報ゼロから探してみた。ビザもギリギリだったので、3日間だけの滞在の中、動けるだけ動いてみた。朝から晩までバイタクに聞きこみしたりツアー会社に聞いたり。だからサイゴンでは観光っぽいことはまるでしていない。そしてフエは雨季で寒くて、ここサイゴンにいっきに来てかなり扱ったけど動けるだけマジで思いっきり動いてみた。








そして、人間やる気になればなんでもできるもので、願いが叶ってドクさんにお会いすることができました。お仕事中に忙しいにもかかわらず時間をとりつくろってい ただいてアポを取らせていただき、翌日ドクさんの家へおじゃまさせていただきました。奥さんがすごくきれいな方で、結婚記念日とオレの誕生日がなんと同じ。1時間程 度でしたがお話できてとても有意義な時間をすごせました。いやぁ引き合ってるわ、旅っつーやつはまったく。感動させますねぇ。








そこで俺はドクさんに、ドキュメンタリーを勉強してたこと、今も撮ってることを伝えた。そしてそのきっかけは自分が病気だった経験。それがあるから今があることをお伝えした。それからドクさんは話してくれた。ドクさんは現在、仕事とは別にボランティア施設をやっているらしい。枯葉剤被害者を援助する施設でも働いていると教えてくれた。自分が枯葉剤被害者ながら、さらに被害者の援助を。そして日本との架け橋としてもメディアに登場したりと大忙しだという。何よりすばらしいのがそれを実際に実現させているということだ。それ聞いてうれしくなってテンションあがって、ミーハーかもしんないけど握手させてもらった。その後、俺はドクさんに僕もすばらしいものを作っていくとお伝えした。








完全にミーハーなんだけど、その後サインとメッセージを青春パンクノートに書いていただいた。ベトナム語だからなんて書いてあるかはわかんないけど、それは旅が終わってから日本帰ってからの楽しみにしている。当然帰り道はウキウキだ。こういう経験がカテになる。ポイントなんだ。メッセージの最後にカタカナで『ドク』って書いてくださった。ドクさん、ありがとうございました。

2008年12月4日木曜日

ベトナム・ホイアン ベトナムツーリシスイズム





はい、またやりました、2、3日でベトナムへ戻るつもりが、DONDETがいい場所すぎて長居してしまいました。でも後悔なんてしてません、てかもっといたいくらいだった。DONDETはそういうところだった。でも僕は日本人。ビザってやつがあるんです。国同士には決まりがあるんです。ラオスビザもノービザの場合は15日滞在可能。ってやばいじゃん!オレ急げ!!








ワット・プーがあるチャムパサックって村からボートで車ごとメコン川を渡る。そっからまずパクセ。バスターミナル探してサワンナケート。一泊したいなって思ってたけど、ちょうどすぐ出発のバスがあったのでそのままフエへ。国境付近、バスの中で一泊してイミグレ抜けてベトナム入って、ドンハ、そしてフエ到着。文章もなんだか急いでます。








ラオスのイミグレでたまたま中国の昆明で一回だけ一緒にご飯食べた人にあった。あの後、一回日本へ帰った後また東南アジアへ来ちゃったらしい。ビエンチャンからフエに行くバスの途中だという。超偶然。こんな国境で。しかもこんな時間早朝。それからなんだかんだ話してたら、なんとこの人バスに置いてかれてしまった。こういうことってあるんだね。ローカルバスこえぇ。荷物は乗せてなかったってことでほんとによかった。それでベトナムドンも持ってなく、近くにATMも銀行もないってことでお金を貸してあげて、オレが乗ってきたバスに一緒に乗ってフエを目指した。困ったときはお互い様ってことで、こんなとこで会ったのも何かの縁ですしね。そしてフエ。そしてフエに着いたらこの人にご飯をご馳走になった。あざーっす!








フエに2泊。急げ、サイゴンへ。ベトナムのツーリストバスはかなり発達しててハノイ・サイゴン間途中の観光スポットでストップオーバーできるんだ。普通はそれでいろんなとこ行くんだろうけど、時間もないのでホイアンでストップ。しかも泊まらないで6時間くらいストップした。








ホイアンは雨。世界遺産になってる旧市街は中国のそれに似てるけど色が違う。色は黄色だ。そこでウォーキング。雨降ってるなんてついてないけど、なんだか雨に似合う街だ。






それにしてもこのベトナム、観光業が発達しすぎてる。モンゴル、中国と来てベトナム、初めて入ったときなんか少し戸惑ったんです。列車乗りたいのに列車よりツーリストバスの方が大幅に安いし、どの観光場所へも好きなときに簡単に行けちゃう。シンカフェやキムカフェといったでっかいツアー会社が連ねる。そして何より戸惑ったのが、ベトナムは縦に長い国なので、行く場所が限られてしまっているってこと。今ハノイにいます、じゃあ次はフエに行くんですね、そして次はホイアン、ニャチャンですねってかんじでだいたいルートも決まっちゃってる。中国、モンゴルはそんなことなかった。網目状で無限だった。だからちょこっと好奇心削られるってかなんだかね。ハノイ以降はそんなことをかんじていました。なんだか修学旅行みたいでいいけどさ。ハノイ以降時間もなくてローカル使わなかったからかな。まあでも便利が一番。ツーリズムの力を利用してやりましょう。最近の頭くらくら病こわいし、シンカフェサンクスってことで。しゃーす!

2008年12月1日月曜日

ラオス・ワットプー ぷー

ワットプーだかワットポーだかどっちだか、そうさここはワット・プー!ちなみにタイにあるのがワット・ポー。ここは世界遺産ワット・プー。ワールドヘリテイジ、ワット・プー。クメール族が築き上げた遺跡。あのアンコールワットのお母さん的存在。つーかぁアンコールワットよりぜんぜんたいしたことないよーとか旅行者みんな言うねん。そんなこと言わないでー。行く前にそんなこと言ったらさめるじゃん。あたいアンコールワットすら行った事ないんだから、ぷー。ワット・ぷー。








DONDETから今にも壊れそうな壊れかけのボートでバンナカサンで戻り、そこから乗合バスでパクセ近くまで行き、そこから今度は今にも直りそうな直りかけのボートでチャムパサックという村まで行く。てか、DONDETから続く頭くらくら病。尋常じゃないぜ。








早朝DONDETをでたので昼ころチャムパサックの宿に着き、宿に着いたよりも早く支度を済ませてチャリンコを借りて飛び出る。目指すはワット・プー遺産。約10キロ先。待ってろ遺跡ってこれねぇ、せっかく急いで出てきたのに何回も自転車のチェーンが外れやがんの。そのたんびに直して、オレもう手真っ黒汗びっしょり。5キロくらいまでは普通に行けてたんだけど、全部で10キロ残り5キロ地点から10mも進まずにチェーンが外れるルーティーン。くそー、なんやねん。そおときそのとき、汗びっしょりのオレをみて、こっちこーい!って言って、現地の人がチャリ直すの手伝ってくれる。リアル10mごとの家にお世話になった。田舎で家もまばらだったもんだから、つまりは5キロ地点でのほとんどの家でお世話になっっている始末。ほんとにコープチャイライライ(ラオ語でどうもありがとう)。結局、チェーンの一部が欠けてしまっているのが原因でいくらチェーンをはめなおしてもすぐに外れちゃうことがわかって帰りかけてた帰り道、道につったってったひとりのおねえちゃんが修理屋のおじさんのとこつれてってくれた。そこでチェーンを継ぎ足して直して、チャリは完全に復活。このおじさんも汗びっしょりで手真っ黒にしてくれて直してくれた。ほんとにコープチャイライライ!!!








時間がない急げ!猛ダッシュ!『三つ目がとおる』大好きだったからさ、遺跡ってどんなんよ!って胸ふくらます。よっしゃこげ!だー!おーっし、着いた!ちょうど夕日でオレンジ懸かっててそこは神々しい光景だった。








てか遺跡ってくさいんだね。ギザすめる!このにおいは当時のにおいなのかな、クメール族さんのにをい。なんかにおいで敵を撃退すんのかも。俺撃退されたかも。だから頭くらくらなのかも。アンコールワットに比べたら小さすぎてダメよって聞いてたけど、涼しくて丘にあるため見晴らしもよく、一日ゆっくり過ごしてもいい場所かもしれない。まあ次に目指すアンコールワットのさわりとして。








帰り、チャリで帰るオレをメコンの夕日が照らす。ここでもDONDETと同じで現地の人がサバイディーってあいさつしてくれる。はいサバイディー。同じ道一本道を走っていた少年とスピード勝負。少年のかっけーチャリの勝ち。グッバイ少年。メコンの夕日が2人を照らす。DONDETで観たメコンの夕日の影響でオレにとってメコンの夕日は特別なものになってる。目にやきつくオレンジの光。メコンの夕日。

ラオス・デット島 メコン川の夕日




パクセでの一件を引きずりつつ、俺は進む。せっかくラオスに入ったもんだから、中国麗江でショウジ君が薦めてくれたDON DETという島。ここに行ってみようと。てか内陸国のラオスでなぜ島かって?実はこの島、幅の広いメコン川の中州の島なんです。中州って言っても福岡にあるようなえっちーとこじゃ決してなく、電気通ってないような、夜は星空マン天なそんなところ。そして実は僕、メコン川童貞でもあって、ずっと楽しみだったメコン川なんすよ。夕日がきれいとかそんなん良く聞くけど、、、うわぁお楽しみぃ。








乗り合いトラックを乗りあいいついでに乗り継ぎ、パクセから5時間ほどでメコン川の沿いのBANNAKASAN(バンナカサン)という小さい村についた。うわぁお、そこにはメコン川!なんで感動すんだろうな、これ、メコン川。めっちゃ茶色。でかー。すごー。ってそんな感想ばっかなんだけどなんだか感動するんです、この川。きっと力持ってるんだろうね。








バンナカサンからボートで中州の島DON DETを目指す。めっちゃ細いボートで今にも落ちそうで、っていうか荷物とか完全ぬれてたからね。そんでもって着く、島!びしょってます。島について宿を探す。パクセの情報ノートにSANTIPHABっていう宿がいいって聞いてたから探してると、偶然その宿のママに会って連れて行ってもらった。そしてこの宿、すごいんです。部屋はシングルで、メコン川ギリギリにある高床式のバンガローに泊まるんです。そこにハンモックがかけてあってさ。ゆったりと時間がながれてる場所。








そこで、ハノイでの風邪、パクセでのひとりMCバトルの一件含め、そしてなんと旅も半分終わったということで、心機一転リフレッシュがてらゆったり過ごしました。ハンモックにゆらゆらゆられながら日本から持ってきた「フラニーとゾーイー」を読み漁る。それにあきたら散歩する。このDONDET、歩いて一周2時間くらいの大きさ。島を歩いてると現地の人がサバイディー(ラオ語でこんにちわ)って言ってくる。そしてオレもサバイディーって返す。欧米人も調子乗ってオレに向かってサバイディー。もちろんオレも調子乗って初日からサバイディー連発してた。だけどはじめはうる覚えで「サバディドゥ」とか言ってた。そんなあほオレにもサバイディーって返してくれたこの島のひとたちはほんとに笑顔でやさしさが伝わってくる。ただのあいさつだけど、心温まるっていうか、こういうのってずっとあり続けてほしい光景だ。









そして3日目くらいに、同じ宿に泊まっていた日本人の人2人に話かけられた。なんだか旅っぽくないご様子、聞いてみるとこの人たちはここに散骨のために来たのだという。亡くなったのはバンドの先輩でその方からの遺言でここに来たらしい。忙しい方で時間を見つけてはここDONDETを訪れ、こころを洗っていたんだって。その人が大好きだったメコン川の夕日を見ながらメコン川に散骨した。その瞬間、2人目から涙があふれ出た。もう20年くらいバンドとして付き合いのあった先輩。バンドっていうのは家族だったとおっしゃっていた。ドラマよりもリアルのほうがやっぱりドラマティックだ。








結局この人たちと話すのがおもしろく、ここに9泊もしてしまった。もっと1番の理由はオレもこの場所が大好きになったから!また行きたい場所のひとつになった。メコン川の夕日、ビジュアルももちろんきれいだけど、もっとなにか見えないなにかがすごくきれいだった。それがメコン川の力の魅力なのかもしれない。